お付き合い頂きありがとうございました
最終話です。
ああ………。
沈む。沈む。
罪とは底なし沼だ。あがけばあがくほど沈んでゆく。
水面に向かってもがき泳ぐのは自分の為。
じゃあずっとずっと底のない沼を沈むのか………。
乙よ。俺達は罪を償う為に心に火を入れた。
しかし水の中で火は起こせないんだ。起こせる訳がないんだ。
でもお前は笑い、観衆を沸かせ、心を温める素晴らしい『笑い屋』になった。
底なし沼に入れた火を燃やし続けていたのはお前だけだった。
乙よ。
桜。司様。呉服問屋。もう誰も帰ってこない。
お前が司様を殺し、桜が呉服問屋を殺し、俺達が桜を殺した。
そしてお前は罪に殺された。
全てはたったひとつの「やかん」によって。
今日で全ての償いと、全ての罪を終わらせる。
もうすぐ底へ、手を離してやる。
…………………………………………………………
江戸の末期。
山中を走る小さな街道に1件の茶屋があった。
安里はその店先に座り団子を頬張っていた。
そこへ甲が大きな袋を背負って降りてきた。
安里は熱情に染まりきった顔の甲に小さな団子を近づけた。
甲は少し微笑み団子を噛んだ。
「よし、行くか」
吉光。将軍にその武を認められる、旗本。国を守り、民と共に戦うという信念から、家来から奉公人に至るまで、決して自分を「殿」とは言わさなかった。吉光と呼ばせていた。
甲と安里は屋敷の奥へと通された。
広い主人の間には家臣たちが左右に並んでいた。
皆が皆、押し黙っていた。
「………久しいな」
「お久しぶりでございます」
吉光は頭を剃り上げていた。そんな事を将軍に許されるのはこの吉光くらいだった。
そしてその視線は遠かった。しかし甲は吉光がどこを見ているのか瞬時に分かった。
それは吉光とその妻、司が一緒に鯉を見ていた池だった。
吉光は眼光が鋭く威圧的であったが、司と一緒に鯉を見ている時だけは笑っていた。
しかし今は全く表情がない。
「10年か。お前らが出稼ぎに出て」
「はい。………商いに来ました」
吉光は池を見つめながらハッと嘲るように笑った。
「確か100両(約2000万円)だったな。お前らの頭を冷やすには十分な金と時間だったろう。
だが俺にとっては端た金だ。後で全て家来と奉公人に配る。………で、何故、お前はひとりだ」
甲は答えなかった。そしてひとつ下がって座っていた安里に目配せした。
出会って間もない二人はもう他人ではなかった。
乙の死がこの二人を死以外の何事からも離すことの出来ない、白く固い鎖で巻いた。
安里はこの甲と乙の金を甲に渡す時、自らの命も渡した。
「なよなよとしているのは今も変わらんな。片割れはついに女になったか」
甲は金の包を膝に置いた。
そしてこの10年間、双子の甲と乙が、桜が、追い求めてきた事を口にした。
「桜の『骨』を、買わせて頂きます」
吉光に少し表情が浮かんだ。寂しいような、何かを押し殺す様な。
甲は少しずつ丁寧に金を並べ始めた。
どれもこれも同じ形の金。しかし甲にはひとつずつが違って見える。
いつ、どこで、どちらが稼いだ金か分かるような気がした。
いつも乙の『笑い屋』の方がよく稼いだ。
甲はその度に悔しかった。
そして自分達の命を並べ終わった。
家臣の1人が吉光に何かを進言しようと腰を浮かした。
吉光は軽く手でそれを収めた。
「………少し足りんようだが」
「15両、足りません。その代わりに買って頂きたいものがあります」
吉光はやっと甲の目を見た。甲は吉光が随分と老いた様な気がした。
しかし同じ底なし沼にいる者同士、深いところに閉じ込められた乾いた涙は見えた。
「おかしな事を言う。俺がお前に約束通り桜の骨を売るのに、なぜお前が俺に物を売る?」
「………乙の骨です」
甲は胸元から白い紙の包みを取り出した。
それを開き、半分焼け焦げた乙の骨を見せた。
「………先日の大火か。おい。桜を持って来い」
家臣の1人が席を立った。
吉光はまた池を見ていた。
そして呟くように言った。
「司、今日は立てるか………」
家臣達は震えていた。
旗本、吉光の前で泣くことは絶対に許されなかった。
奉公人達はあまり司を知らなかった。
病弱ゆえ、吉光が近づけなかったからだ。
通常は家臣達が世話をしていた。
床を殴った者が居た。だが吉光は池を眺めたままだった。
しかしもう………家臣も安里も畳に涙が落ちた。
「桜でございます」
家臣はマリの形の美しい彫刻の入った、白い小さな木箱を吉光に渡した。
吉光はそれを持って甲の前にしゃがみこんだ。
「手渡す位は自分でやらねばならないな。ほら、この箱は桜の木で出来ている」
そして両手で小さな木箱を甲に手渡した。
中には白い絹で包まれた、小さな小さな、桜がいた。
「乙の骨は要らん。桜と一緒に故郷に埋めてやれ」
吉光は立ち上がって去ろうとした。
「吉光様」
「何だ」
甲は畳に額をつけた。
「わたくし達兄妹、甲乙桜は、吉光様の最愛の妻、司様を死に追いやりました。
そして、わたくし達の身内の犠牲心は、吉光様の傷口をさらにえぐりました。
吉光様は桜を呉服問屋に売られましたが、死ぬとは思われなかったのでしょう………。
吉光様に取り返しのつかない消えない悲しみ、罪を、わたくし達、甲乙桜はつくってしまいました。
しかしわたくし甲、それ以外の者は最後の火が消える時、司様に………。
どうか、わたくし達兄妹の命を持っても許されませんが、謝罪をさせてください………」
吉光は甲の側で自分の足元を見つめていた。
じっとしていた。
泣いているのは安里だけではなかった。
しかし安里以外は、声も出さなかった。
吉光は一度天を見上げてから甲の頭をポンと叩き、甲にだけに聞こえるように言った。
「罪とは赦しだ」
そして庭に出ようとし、振り向いて言った。
「おい。女。思い出した。お前は呉服問屋の便利屋だったな。雇ってやる。
甲は今の商売を続けろ。つまらん話し屋だろう。でもそれが供養だ。
………俺は司と金楼(きんろう)を見てくる。もう帰れ」
江戸の末期。
山中を走る小さな街道に一件の茶屋があった。
昼前の透き通った空の中、店主の婆様は店先に座って居眠りをしていた。
その前を一組の夫婦が通り過ぎた。
「ここ?」
「そう。江戸が見渡せるだろう。金はここに埋めていた」
「どうしてここに?」
「俺らの村は病で失くなった。ここは幼い頃、兄妹三人でよく来た場所だ」
安里は遠くに見える江戸を目を細めて見た。
「幼い頃は江戸を見下ろす自分達が将軍だとよく言っていた。
桜は俺らの間に座ってキャッキャと笑っていた」
「さ」
甲は金が詰まっていた穴に桜と乙をそっと埋めた。
そして立ち上がって手をパンッパンッとした。
「さーあ。急に子供が二人もできたしな。稼がないと」
安里は甲に抱きついた。
「………空が蒼いな。『哀し屋』は廃業だ。
誰だって笑って生きていたい。俺は『笑い屋』をやる」
(俺は水面で大きく息を吸い込んだ。乙と桜よ。お前らの手を離すぞ。
ここはもう底なし沼ではない。美しく光が漏れる水底でゆっくりと眠れ)
甲と安里はしばらくの間、突き抜けるような青空を見ていた。
「見っけ」
「………」
「もう金は払わないよ。甲、見っけーーーー」
安里は甲を抱きしめた。
「よせ、お前の力じゃ骨が折れるだろ」
「見っけーーーー」
江戸の末期。
ある家族があった。
そこに呆れて笑っている3人の子供達がいた。
父母がいつまでも新婚の様だからだ。
しかし彼らは骨のある夫婦だった。
そして桜の咲く、きらびやかな季節がやって来た。
全ての罪を、養分にして。
(終わり)