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江戸の末期。

 

ある縁日があった。

 

 

「はてはてはて。保吉。お響はどこへ行った?」

 

夏の縁日も終わりの晩、本殿への石畳を優雅に歩きながら、大商人の妻、沙雪(さゆき)は言った。

 

 

歳は20代も終わりの頃であろう。

しかしその美貌と才覚は城下の者みなが知るところであった。

 

 

だからこのような縁日の人出でも、着飾った沙雪の前には誰もが道を開けた。

しかし一番後ろを連いてきた幼い下女(召使い)お響の姿が見えなくなった。

 

 

下男の保吉は言った。

「このような縁日の人出です。はぐれたのでしょう」

「出来ない娘だねぇ。里に返してやろうかしら」

 

 

保吉は手ぬぐいで汗を拭いながら、少し荒い吐息で話していた。

沙雪は多くの者に道を開かせるが、それでもごろつきや物知らずなどは保吉が跳ね除けなければいけなかったからだ。

保吉は沙雪に惚れていた。それは一生実ることのない恋だった。

 

 

「沙雪様、お響はまだ年端もいかぬ小娘です。まだ人混みにも慣れておりません」

「何。だから奉公を怠っても良いと?」

「いやいやいや、そんなつもりはありません。もう少し待ってやって下さい」

 

 

そして保吉はお響も自分の娘の様に可愛がっていた。

これらの関係は、沙雪は、お響は、保吉にとって夢の家族だった。

 

しかしただの下男である保吉は今のままで充分、満たされていた。

充分?それは所詮、願望の中での充分でしかなかった。

 

 

「………それで。さっきすれ違った吉祥天背負った博徒は誰だい?」

「あれが伐叉の魏豪(ばっさのぎごう)です」

 

「あれが………伐叉の。」

「刀使わねえで首根っこ刈るところから伐叉(ばっさ)だと」

 

「しかし油臭い道だね。で………はてはて。これは?」

 

 

10歳の下女であるお響は、下女の格好をした女みたいな双子の男に、手を繋がれて帰ってきた。そして沙雪に駆け寄った。


「沙雪様、すみません。はぐれてしまいました。荷物はしっかりと持っております」

 

 

下女の格好をした女みたいな双子は、微笑みながら立ち去ろうとした。

 

「あんたら」

 

 

双子の片割れが振り向いた。

 

「礼ぐらい言わせたら」

双子の片割れは手を振り、去ろうとした。

 

 

大商人の妻、沙雪は双子の片割れの腕を掴んだ。

それは細く女の様な腕だった。

 

 

沙雪は気が強かった。

あの豪商を手の平で転がし、浮気ひとつさせない妖艶な美しさは、自身の前を軽く立去る男を許さなかった。

 

「なぜ、逃げる?」

「………私らは話すことが商売です。これ以上は」

「じゃあ、金を払う。ちょっと道をそれな」

 

 

五人は本殿への石畳からそれ、灯籠の裏に回った。

 

 

「保吉。金の包を出せ」

「はい」

保吉は包を沙雪に渡そうとした。

 

 

「その包、あいつらの前に投げろ」

「は?」

「私が何度も同じ事を言うのが嫌いなこと、分かっているだろうが」

「………はい」

 

 

保吉は金の包を双子の前に投げたが、双子の反応を見るのをためらい、すぐに手拭いで顔を拭った。

 

お響は荷物を両手で抱え下を向いて立っていた。

双子は微笑して突っ立っているだけだった。

 

 

「これだけあればどうだ。夫が祈願で出したが、こんなもの積まないでもそもそも儲かってる。払う。話せ」

沙雪は双子の片割れに顔を近づけた。

 

 

沙雪は真っ直ぐな、それでいて挑発的な、暁を宿したような目で双子の目を見た。

女には少ない鋭い眼光だった。そしてそれは決して揺るがない熱を秘めていた。

 

不遇を生きてきた故に積み上げられた熱ではない。明らかに天才として生きてきた熱だった。

双子の片割れは少し目をそらした。

 

 

「ありがたく。それで、何を?」

「なぜ下女の様な格好をしている?」

「罪を忘れぬためです」

「何の罪だ」

「それは話す相手を選ばせて頂きます。例え獄門に繋がれようと将軍様の前であろうと話しません」

 

 

その時、お響は黙っていた双子の片割れと目が合った。

 

………掃除、洗濯、調理………召使い。それだけ。毎日、毎日、廊下を拭く。一休みする。

 

向こうの空からどす黒い雨雲が近づいてくる。ふと床を見ると水滴がある。

雨漏りかと思ったが………自分の涙だった。

 

 

市場の旦那は可愛がってくれる。

お使いに来るお響の頭を撫でてくれる。

 

でもこの双子の片割れは違う。

お響の中を見てくる。

 


お響は里での話なんて誰にもしたくない。

でもこの双子の片割れはそれを分かっていて、お響の心に微笑みかける………。

 

 

「今の将軍が嫌いか」

「いえ、知らないだけです」

 

「ここで何をしておる」

「金を貯めています」

 

「何のためだ。いくらだ」

「100両(約2000万)です。これも理由は話しません」

 

 

「………双子か」

「そうです」

 

「もう一人はなぜ話さない?」

「小奴はいつも笑っておる者です。だから日頃は静かです」

 

「………なーんにもわからん。誰だお前ら?罪がなんだ?それだけ教えろ」

 

 

双子の片割れは金の前にしゃがみこんだ。

そして漏れ出した硬貨を2枚、包みに戻した。

立ち上がって手をパンッパンッとした。

 

 

「………どうぞ下男、下女でさえ愛でるような立派な奥方になってください。では」

「これほど払ってそれだけか」

 

 

「………これは私どもの話の金ではありません。貴方様の耳の金です。では」

「肝心なところだけ何も聞けない私への皮肉か?」紗雪は詰め寄った。

 

 

その時、微笑していた双子の片割れは初めて沙雪の目を真っ直ぐに見た。


沙雪は震えた。

そこには大きな闇があった。

おおよそ自分は感じたことがないであろう、飲まれては戻ってこれない闇が。

 

 

しかし双子がもがいていることもわかった。

そこから生き直そうとしていることも見えた。


生い立ちの良さ、美貌、才覚、財力………そんな沙雪が持っている物では到底、埋まらない大きな闇を彼らは抱えて戦っている。

 

 

「私らが罪を背負って生きておることを、貴方様はお知りになった。私らにとってそれを他人に言うのは辛いことです。

 

いつもは着物がこれしかないと笑って済ませます。しかし貴方様の眼を見ておりますと、つい話してしまいました」

 

 

「だからその内容を話せ。お前らなら何ヶ月も遊べる金は出しているだろうが」

「………先程、博徒の方には、お話しましたが。貴方様には、とても、とても」

 

 

沙雪は双子に掴みかかろうとした。

下女のお響は沙雪の袖を引いた。

 

 

「沙雪様。人の心というものは、あの様な金では買えません」

沙雪はお響を一瞬睨みつけたが、すぐ冷静になった。

 

 

女のような双子は雲の上を歩くように、縁日の人出の中へ消えていった。

その背中を見て沙雪は何故か気が抜けた。

いや、優しい目をした。

 

彼らは金を持っていかなかった。

 

 

保吉は地面に落ちた金の包を拾い上げながら言った。

「金で買えれば、楽なんですけどね………」

 

 

 

 

 

(つづく)

 

写真はフリー素材などを使って制作した物です。