悦永の舞台に行ってきた。



ひとの大学に入って学食を食べたりアカペラサークルの発表を聞いたりなんかして、雨だったけど学祭の雰囲気は少し味わえた。




広い敷地を歩いてやっと3号館にたどり着き、列に並んでいたら前のおっさんがスマホで悦永のツイッターを見ていた。



それもかなり遡ってひどく昔のつぶやきを読み漁っている感じだった。



誰だったんだろうね。



熱心なファンか彼氏か、そんなとこだろうと思う。



開演すると、小慣れているのか緊張しているのかよく分からない2人の司会が出てきて、途中小芝居なんかを挟みながら進行していた。



コンテやら絵本やら音楽やらミュージカルやら、なんだか楽しそうなものが続いて素直にわーすごーいかわいいーうまーい等思っていたのだけど、さすがに長いし、審査なんてものをしなくてはならないので適当にヘラヘラ観ているわけにもいかず、でもやっぱり長いはよ悦永出せ、てな感じで途中話なんか全然入ってこなかった。




そしてそして始まった。やっと、お目当のやつ。




うーん。悦永、声だけでもすぐ分かる。



一瞬で戦時中のひとになったり沖縄の女の子になったりニューヨーク帰りのシンガーになったり、多重人格のようだった。



悦永なのに悦永じゃない、って頭がごちゃごちゃになっていく。



終盤、お母さんが亡くなるシーン。



あれだけは紛れもなく悦永だった。




申し訳ないけど、悦永にしか見えなかった。




本当に目の前の死を嘆いているように見えたし、そのおかげであの人も本当に死んでいるように見えた。




悦永だけは紛れもなく本当で、一瞬で舞台が現実味を帯びたものになった。



経験したことがあるものとないものの違いって、思ったよりも大きいのかもしれない。




妻を亡くしたことがない人の妻を亡くした夫役よりも母親を亡くした人の母親を亡くした役の方が、圧倒的に、というか比べのもにならないくらいリアルだと思う。
当然だけど。





舞台をやる人はカメレオンのように何者にでも化けられるって思ってたけど、やっぱりどこか違う。




演技は化けるんじゃなくて、自分と役の間をどれだけ擦り合わせることができるか、なのかもしれない。




その役所と全く同じ人生は経験したことがなくても、あらゆる種類の経験をして引き出しを増やせば、役と自分の間を0.02ミリくらいまでにはできると思う(コンドームの話じゃないです)し、断片的には本物になれると思う。






だから、悦永がなほよりも何倍ものスピードであらゆることを経験しているのも、肯定的に捉えれば全て演技の肥やしになっているんじゃないかって、身をもって感じた。



男性経験も、どんな恋愛をしている人の役が来ても大丈夫なようにたくさん経験しておけばいいし(処女の役とかきたらかなりキツイことになるが)、色んな人と関わってどんな役にもその現実味を感じさせるような人になってほしい、悦永なら絶対なれる。




悦永って、きっとなほよりも体力とか気力とかそういうバイタリティが溢れかえっているような人なので、このペースで貪欲にばりばりと経験値を上げて欲しい。



そしてたまにこうして経験値2のなほが悦永の演技をみて、擬似的に見たことも触れたこともない世界を覗き見するんだ。




悦永は舞台に立つための人生を生きていて、それがすごく似合っていると思う。






あとこれはよく分からないんだけど、仏壇にお線香をあげるシーン、妙に手つきの慣れた悦永をみて、演技とは関係なく涙がでた。



いや、あらゆるところでひっそりと泣いていたんだけどね。



また知らない世界覗き見するの、楽しみにしてる。