かつてなく穏やかな日々を送っております。





研究もそれなりにやっているけど、4年になって講義の数がかなり減ったので、自由な時間がたくさんある。




朝は割と早起きで7時半くらいまでには起きる。




不規則な生活リズムが精神にどんな影響を与えるか知っているから、そこだけ妙に臆病というか、逆に言えば規則正しい生活さえ送っていれば健康的な心を持ち続けることができると過信している。




過信といっても悪い意味ではないよ、御守り的な感じでそこだけは譲れないこだわりみたいなもの。




朝早く起きてご飯食べてお皿洗って洗濯して掃除機かけて水槽の水かえたりして、諸々済んでもまだ10時前、さて今日は何をしようって考えてる時が好き。




何か大それたことをするわけではない。




映画観に行ったり家の近くのアクアリウムショップに行ったりする。




最近は外も暖かいので、開け放した窓のそばに椅子を置いて実習中買っておいて読まずじまいになっていた本を読んだりもする。




いろいろな人の文章を読んでいると、自分の考えてることがだんだんとはっきりしてくることがある。




名前のない気持ちを言葉にしてくれる人たち。




そうすると自分でも言葉にしたくなってブログの下書きにブワーっと書き出したりする。




だけど大体は自分の考えていることと違う文章が出来上がってしまう。




ただ単に自分の文章力がないからなのか、それともはなから言葉にできないものだったのか、どっちも確実にあると思う。




自分の頭の中の気圧でしか生きられない言葉というのは絶対にあって、それをあえて言葉にするなんて意味のないことかもしれない。




そういう時はもう何もしないのが一番だと学んだ。




最近、穏やかな時間の中にいるからなのかひどく精神が不安定になったり汚い言葉をTwitterにつぶやいたりすることが減った。




自分が大人になったという自覚は相変わらずないけれど、10代後半のあの感じにはしばらくなってないところからして、やっぱり少しだけ心が成長したのかもしれない。




まだ完全ではないけどね。




人と話していて、自分が好きなものや好きな人のこと否定される時がある。




自分の好いているものを人に強要したくはないし、むしろ自由にやってくれという感じなんだけど、そういうことばかりが続くと少しだけ気が滅入ってしまう。




音楽でも、映画でも、本でも、人でも。




「自分ではすこぶる好き」もどこかの誰かにとっては「ものすごく嫌い」という摂理、すごくよく分かる。




トマトが大嫌いな自分には、口の中でミニトマトを美味しそうに弾けさせる人の気持ちが全く分からないけど、トマト大好きという人を何人も見てきているので頭では理解しているつもり。




トマトを好きな人もいる。




問題なのは、私はソレが大嫌いですと声を大にした言うことなんじゃないかと思う。




なほが気が滅入ってしまったのは、自分の好いているものを嫌いな人がいるという事実ではなくて、「あんなもの嫌いだよ」と言葉にして畳み掛けられたからだと思う。




好きなものを否定されるのは辛い。




自分のアイデンティティは自分の好きなものでできているから、気を確かに持たないと自分が否定されているような気になってしまう。




なほにも嫌いなものはたくさんあるけど、どんなものにも熱狂的なファンがいることを忘れないでいようと思った。





ゴキブリやパチンコとか大嫌いだけど、ゴキブリを研究して世の役に立っている人や、大真面目にパチンコをやって生計を立て家族を養っている人が、もしかしたらいるかもしれない。




好きなものを好きというのはいい。




人が好きなものを語っているのを聞くのはすごく好き。




だけど「嫌い」の気持ちは自慢げにひけらかすものじゃない。




ふとした素直な言葉で、傷付く人がいることを忘れないでいよう。




とは言え、かなり自分でも言ってしまっているけど。





気をつけたいなぁというだけの話です。