意地悪ばあさんと肝っ玉かあさん | 懐古趣味親爺のブログ

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幼少期(1950年代)から成人期(1970年代)までの私の記憶に残っているものを網羅。

長谷川町子のマンガといえば『サザエさん』が圧倒的人気ですが、他にも『エプロンおばさん』と『意地悪ばあさん』も人気がありました。『エプロンおばさん』は望月優子と藤村有弘の主演で2度(1959年と63~65年)テレビドラマ化されていましたが、『意地悪ばあさん』は日本テレビ系列で1967年9月26日~69年9月25日放送が最初です。

主人公の波多野たつは、超一流の毒舌とへそ曲がりが身上のお婆さん。主演を誰にするかにあたって、番組スタッフは「原作者のたっての希望である小柄でやせたタレント」「未知数のフレッシュな存在であること」「番組の性質上、脚本や演出を自らのアイデアではみださせる自己主張も必要」という条件から青島幸男に白羽の矢を立てます。青島は当時、「スーダラ節」を始めとする一連の無責任ものの作詞でヒットを飛ばす一方、『シャボン玉ホリデー』の放送作家としてだけでなく自ら出演。『俺はども安』では俳優としても活躍するマルチタレントでした。当時、東宝で『意地悪ばあさん』の映画化の企画があったのを知っていた青島は、黒沢プロにいた青柳氏からオファーを受け、てっきり映画だと思って承諾したとのこと。出演交渉に時間がかかると思われていたのが青島の早トチリであっさり決まりますが、放送開始にあたっては難産。もともとはTBSが放送する予定でしたが、タイトルの“意地悪”が困ると突然クレームがついて白紙に戻ります。それから、放送してくれる局を求めてスタッフは東奔西走。大阪の読売テレビがOKしたのですが、キー局の日本テレビが「TBSが断ったものを何でうちが……」と難色をしめします。読売テレビが日本テレビと交渉してとれたのが火曜夜10時という視聴者数が少なくなっていく時間帯。現在のように夜遅くまで起きている人はそれほどおらず、10時といえば寝床に入る時間。夜11時といえば、もう深夜でしたからね。

番組スタートからしばらくは視聴率不振にあえぎます。転機は吉田茂元首相の国葬の日。各局ともクラシック音楽や座談会などの追悼番組を編成するなか、局側の反対を押しきってオンエアーし、それまで4~5%だった視聴率が24.9%にはね上がります。それからは順調で、青島の知名度もグンとアップ。のちに参議院議員当選を果たした時には自ら「この番組のおかげ」と認めています。ズケズケとものを言い、あけすけと積極的に行動する意地悪ばあさんのキャラクターが青島のイメージに重なり、国民の不満を代弁してくれると思われたんですね。

青島が議員になったことから、意地悪ばあさんは古今亭志ん馬にバトンタッチ。愛敬が強調されて初代の持ち味だった底意地の悪さが消え、“正義の味方”的に変身していきます。この路線は3代目・高松しげおにも引き継がれ、マイルドな意地悪では視聴者に受けず、視聴率はダウンしたので~す。

 

ホームドラマでは傍役的存在だった母親を主人にしたのが『肝っ玉かあさん』(TBS系列で1968年4月4日~11月28日)でした。

主人公は東京・下町の蕎麦屋の女主人・大正五三子(京塚昌子)で、夫を亡くした後ひとりで二人の子どもを育ててきた古いタイプの母親。子どもたちはすでに大きく、娘の三三子(沢田雅美)は看護婦志願。息子の一(山口崇)が突然結婚したいと言い出してくるのが第1回のエピソード。一は雑誌記者の綾(長山藍子)と結婚し、時代も価値観もまったく違う嫁と姑を軸に、さまざまな人間関係が入り乱れて展開していきます。

京塚昌子の、お人好しで、抜けていて、バリバリ行動して、ポンポン言い合って、力いっぱい生きていくというダイナミックなキャラクターは、良妻賢母ともド根性女とも違う、全く新しい母親像でした。それが京塚の太った体型とマッチ。23歳の時に盲腸手術をしてから太りはじめ、やせるためのホルモン注射が裏目にでて、とめどもなく太ったとのこと。石井ふく子プロデューサーは、そのたっぷりした存在感に惚れこんで主役に抜擢しました。主人公の設定年齢は51歳でしたが、演じる京塚は当時38歳。メイキャップしなくても違和感はありませんでしたよ。