スチャラカ社員 | 懐古趣味親爺のブログ

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幼少期(1950年代)から成人期(1970年代)までの私の記憶に残っているものを網羅。

昭和30年代、大阪の寄席で必ずトリをとる人気漫才コンビに中田ダイマル・ラケットがいます。スピードある会話と多彩なギャグに客席はいつも爆笑の渦。ダイ・ラケは兄弟で、1941年にコンビを結成。コンビを組んでいた兄のデパートが亡くなり、工員だった弟をダイマルが仕込んでラケットにしたんです。ダイマルの「いうてみてみィ、きいてみてみィ」というギャグが流行語になりました。1954年に朝日放送の専属となり、ラジオのレギュラー番組において、『お笑い街頭録音』『スカタン社員』とヒットをとばします。1957年4月から始まった『びっくり捕物帳』がテレビ初主演。

『びっくり捕物帳』の後、同じ時代劇コメディの『どろん秘帖』に主演したのですが、スタジオ生放送のため忍術場面での失敗が多くて、1年で打切り。ラジオで人気のあった『スカタン社員』のテレビ版をやろうということで始まったのが『スチャラカ社員』です。

海山物産という商事会社の大阪支店を舞台にしたサラリーマン・コメディで、 “スチャラカ”という言葉は、脚本家の香川登志緒によると、喜劇“アチャラカ”ものの一歩手前という意味とのこと。アチャラカというのは、滑稽なしぐさや、にぎやかなふるまいで観客を笑わせる芝居。アチャラカには届かない、如何にもならないほどやる気のないとぼけたサラリーマンが主人公なのでスチャラカ社員。「定年までボチボチいきまひょか」という、中年の無気力社員がダイ・ラケにはピッタリでした。

社長がミヤコ蝶々。舞台を大阪支店にしたのは、民放各局に出演していて、スケジュールのきついミヤコ蝶々が、毎週出演できないことを考慮しての設定。仕事をしないダイ・ラケを蝶々が叱るのですが、ダイマルが何やかやと言い訳するやりとりは漫才の面白さです。絶妙のボケとツッコミね。

支店長が横山エンタツ。腰痛で座ったままの演技が多かったですが、とぼけた味がなんともいえません。蝶々とダイマルが、出演者のまとめ役としてエンタツの出演を希望したそうです。

「ほんと、ちい~とも知らなかったわァ」と、とぼける無責任課長が人見きよし。

若手社員役には、腹話術で人気のあった川上のぼると、『びっくり捕物帳』に出演の関係から藤田まことが出演。「ハセく~ん」と叫んで片想いの女子社員を追いかける藤田まことは存在感をしめし、全国的に名前が知られるようになりました。

追いかけられる美人社員は長谷百合。長谷百合は映画出演するようになり、代わって女子社員役で登場したのが当時高校生だった藤純子。藤田まことは、今度は「フジく~ん」と叫んで追いかけていましたね。横山エンタツも腰痛がひどくなって降板し、部長役で長門勇が登場。

給仕の少年役で出演していたのが白木みのるで、当時は大人とは思わず、小生意気な子どもだと思っていました。番組を提供していたのが小野薬品。♪~動脈硬化も血圧も、コレステロールのせいなるぞ~と、白木みのるが歌うCMソングでコレステロールを知ったんです。

朝日放送(関東ではTBS系列)で1961年4月2日から67年4月30日まで続く人気番組となりました。1966年には松竹で映画化されています。当然マンネリ化となり、途中で何度かメンバー変更が行われていますが、私が観ていたのは最初2年くらいです。それでも、高度成長時代で仕事に追われるサラリーマンにとって、現実にはありえない夢のような世界の『スチャラカ社員』はフラストレーションの解消になったのでしょうねェ。