テレビが映った | 懐古趣味親爺のブログ

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幼少期(1950年代)から成人期(1970年代)までの私の記憶に残っているものを網羅。

日本で初めてテレビ放送が開始されたのは1953年2月1日。午後2時のNHK会長の挨拶に始まり、最初の番組は歌舞伎の『道行初音旅』で、全部の番組が終了したのが8時45分でした。放送開始時に受信契約を済ませていたのは東京で664、視聴可能地域全体でも866。大学新卒の初任給が8千円程度で、それに対しテレビ受像機はアメリカ製の17インチが25万円前後、国産の14インチでも17~18万円もしたんですよ。同年8月28日に民間放送局の日本テレビが開局。続いてKRテレビ(現:TBS)が55年4月に開局しました。

そんな中、わが家でテレビを観たのは、私がもうじき小学2年生になる56年3月のこと。「おっ!映ったぞ」という父の声に、庭で遊んでいた私が父のところへとんでいくと、17インチのむきだしのブラウン管にNHKのテストパターンが映しだされていました。NHKの技術マンだった父は、NHK広島の開局にあわせてテレビを組立てたのです。スピーカーを接続し、ケースに収納して、テレビとして完成したのは、それから3~4日後。普通の家庭ではテレビは電気屋さんからやって来るものですが、わが家ではテレビは父の工作物。テレビ工場さながら、自分の手で組み立てて出来上がったのです。当時、秋葉原ではテレビの組み立てセットが売られており、現在ではパソコンが自作されているように、テレビを自作する人が結構いたんですよ。

画像は、わが家のテレビ。見ているのは私の母と従姉妹。

首都圏・名古屋・近畿圏に限られていたテレビ視聴が56年になって広島・仙台・札幌・福岡でNHKのテレビ局が開局。まだまだ全国的にはテレビの映らない地域が多かった時代です。地方の民間放送局が開局するのはまだ先のことで、観ることのできたチャンネルはNHK総合の1局のみ。放送時間は昼の12時ぐらいから始まり、夜の10時前には番組が終了していました。56年4月2日~8日の番組表が手元にありますが、記憶にあるのは、『ジェスチャー』『こんにゃく問答』『私の秘密』だけ。レギュラー番組ではありませんが、テレビの特質を活かすスポーツ中継は頻繁に放送されています。上記の番組表でも、昼間は選抜高校野球の実況です。憶えているのは、57年夏の甲子園での広島商業の優勝。特に第1回戦は、1点差で負けていた9回ツーアウトから四球を選び、盗塁してヒットで同点に追いつき、延長戦で勝つという劇的なものでした。決勝は東京代表の法政二高相手に3対1で勝利。広島カープは弱かったけど、高校野球だけは強かったです。

それと忘れられないのがプロレス中継。NHKがプロレスを放送したなんて信じられないでしょうが、シャープ兄弟VS 力道山・遠藤幸吉組のタッグマッチを私は観ています。なにしろ、朝日や読売といった大手新聞のスポーツ欄にプロレスの結果が掲載されていた時代なんですから。

シャープ兄弟は56年4月が二度目の来日で、力道山組と6試合戦っています。私が観たのがどの試合だったかは、記憶は曖昧。だけど、初めて見るプロレスは凄かったです。力道山が大きくてたくましい外人を、反則攻撃をはねのけ、ブン投げ、張り倒し、踏んづける。胸のすく空手チョップの威力。たった1回のテレビ観戦が、私をプロレス好きにさせました。マンガ雑誌や新聞にプロレス記事が掲載されると貪り読みましたよ。当時の広島ではプロレスを見た小学生はあまりおらず、学校で話題になることはありませんでした。プロレスブームも下火になってきて、小学生の間でプロレスがメジャーな話題になるのは、民放が開局してからのことで~す。