タイガースの野球は美しくない
昨日は9回に3本のドームランを重ねて大逆転したわけだが、今日は惨敗
そんな結果はまあどうでもいいんだが、タイガースの野球が美しくないというのは残念だ。
1回、つり出したラミレスを殺せないで、無駄な失点。重ねて言えば金本の守備位置も無駄な失点の理由だ。
3回の新井の守備・林の守備ともに、能力とは無関係に美しくない。
最近のタイガースの売りは守備範囲の広さとか華麗さではなく、守備の手堅さだったはず。
備前焼のような味があったんだがな
46歳の死に様について
儂は三沢の死について割と冷淡に考えている。
なぜならあれば、儂らの死に方でもあるからだ。
同じように体を痛め合う仕事ではないものの、
儂らの体は同じように痛んでいる。
心も同じく痛んでいる。
いつバックドロップ1発の受け身をしくじって
川を渡ることになるのかはわからない。
いつでもなんでもプロレスだってことを
別の角度からまた証明した社長が現れた
ってだけのことだ
男、46歳の死に頃
長州・天龍離脱後、選手の質と数の低下を全日はハイスパートレスリングで切り抜けた。
メインエベントが10分くらいでフィニッシングムーブ一発で終わるようなことはなく、
グランドやチョークで時間を稼ぐようなこともなく、
場外乱闘という名の散歩を多用することもなく、
序盤からがんがん大技を交換した。
その中心にいたのが勿論三沢だ。
いつか死人が出ても不思議はない・・・そんな大技が頻発していた。場外へのタイガードライバーとかエメラルドフロージョンとか
実際にはそう簡単に死なないのがプロレスラーだから死なないんだが。。。確率はいつか勝利を収める。
だから誰かは死んだはずだ。
儂が思うに、死んだのが三沢で良かった。
勿論死にたかったはずはないが、誰か死ななきゃならないとしたら、三沢しかないだろ?
本人もそう思ってないかな?
『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』あるいは『プロレス哲学の終焉』
『哲学は終わった』そうだ。もう何十年も前の話だが・・・確かに哲学者がするものとしての哲学は終わったのかも知れない。世界観なんてものはいまや、地下の巨大測定装置や数学者の方程式の中から生まれる。文学部哲学科からは生まれない。しかし哲学を、一発芸と同じ感覚でとらえている儂
にとっては、哲学が哲学者によって行われようが、それ以外のものによって行われようが大した問題ではない
まあ、『歴史』『ストロングスタイル』『第3帝国』『Pride』『バブル経済』『還元主義』『帝国主義的社会主義』などなど・・・元から存在していないか終焉を宣言される価値のないもの以外は、すべて事前に終焉を宣言される運命にある。
科学もまた然り。何年か前にJ・ホーガンの『科学の終焉』と言う本が話題になった。この本が妥当かどうかはここでは議論しない。あの本のテーマは、『科学においてはここ何十年も革新的な業績は成し遂げられていない。今後も起こらないだろう。皮肉の科学だけが続けられていく』ということだった。作者は科学の分野を革新するような科学の成果に較べて、その成果の後シフトしたパラダイムのなかで繰り広げられる科学を、『皮肉の科学』と呼んだ。この『皮肉の科学』の存在の部分に関してはホーガンはどうしようもなく正しい。(彼が言い出したのかどうかは知らないが・・・)『皮肉の科学』は、単なる関係者の職業としてまたは産業として、業績を積み重ねていくが、この業績は単に苦行の繰り返しに過ぎず、新しい知識を生み出すことはない。
力道山・馬場・猪木・天龍・長州・前田・佐山・ムタ・ビンス・・・・革新的なレスラーによって、プロレスは徐々に姿を変えて続いてきた。対してプロレスに対する論評も形を変えてきた。R・バルト『神話作用』、村松友視『私、プロレスの味方です』、ちょっと遅れてY井上編集長、次にターザン山本、田中正志のシュート活字、加えてMr.タカハシのゴーストライター、そしてインターネット。これらがプロレスの論評に革新を起こして現在に至っている。(勿論ここに上げられない何かもあるかも知れない)
話題を呼んだ『現代思想 2月号増刊:プロレス』。これを今回俎上に載せる。事前の期待に反して肯定的な評判は乏しい。しかし、事前の期待には反しているが、事前の予想通りとは言える。
特集の本体を占めると思われるのは『プロレスの哲学的考察』であるが、わずか4篇しかない。おそらくプロレスに関する哲学を書いてくれる人を充分集めることができなかったに違いない。
”『神々の演劇』by澤野雅樹”は意図したものであるとないとにかかわらず、ネットで有名なあるコラムの出来の悪いコピーである前半と作者のプロレスに対する思い出をつらつらと書き連ねただけの後半を無理矢理繋いだ迫力のないキメラに過ぎず、取り上げるべきものがない。
”『「ほんとうの本物」の問題としてのプロレス』by入不二基義”は92年の論文を元にしている。トンプソン論文に対する論考という全く意味のないものを冒頭に持ってきていることに目をつぶったとしても、92年以降シュート革命、シュート活字、Mrタカハシ、ネットプロレスなどの革新を経験していない論文は既に前のパラダイムに属する。はたして21世紀の物理学の科学雑誌にガリレオが投稿したらacceptされるだろうか?これは澤野の文章にも言えるものである。
”『光を聴け、声を見るな』by柿本昭人”は時事ネタを導入に、テクニカルタームをまぶせた典型的な青土社文体だ。読み物としてはいいが、テクニカルタームをまぶせてプロレスを語ることができるという以外に、プロレスについてなにを教えてくれるだろう・・・そしてそれが可能なことは儂らはもうすでに知っている。また、一部のテクニカルタームは定義されておらず、論文としては無価値だ。まあ論文ではないのだろうが・・・
哲学と肩肘を張らない読み物群はそれなりに面白い。
”『プロレス原風景への輝線』by井上善啓”はありもしない『プロ格』と言う言葉を使って、理解していないネットを相手に、裏付けのないプロレスの危機を煽る。団体の振ったアングルからも現実からも自由勝手に自社製のアングルを張って読者を欺くのはファイト編集長時代からの素晴らしい手法だが、いかんせん年齢的にこの力業にはもう無理がある。
『前田日明による前田日明 前田日明(聞き手 李スンイル)』:人には近すぎると決して見えないものがある。近すぎるために前田自身が『前田』を語っては何の意味もない。そもそも、前田は自身が語ることが妥当なほど小さな存在ではなく、自身で語ることが可能なほど筋の通った存在でもない。案の定、民族のこと以外は『いつみても波瀾万丈』と何ら変わることがない。
”『リアルアメリカ』by町山智浩”はごく軽い読み物で、中味はよく分かる。ついでに言えば、WWFの流れを知っていれば読む必要がないどころか、所々間違いがあることまでよく分かってしまう。勿論哲学とは何の関係もない。
『プロレス社会学への招待~イデオロギーとテクスチャー』byDr.マサ:全ての革新を経た新しいパラダイムに属する層から『プロレスの哲学的考察』のセクションに呈された文章はこれだけである。その意味ではこのセクションで唯一の読む価値を持つものだろう。逆に言うとその意味で他のものは読む価値がない。
Drマサはいう『バルト以降のプロレス論は今端緒に付いたばかりである』
はたしてそうだろうか?
田中忠志はことあるごとにwrestling Observerを持ち出す。確かに新しい号には新しいことが書いてある。書いてあることのレベルは高いのだろう。革新的な雑誌であろう、少なくとも出来たときには革新的な雑誌だったはずだ。
しかし、それは果たして新しいのだろうか?そうではあるまい。出来たときには新しかった。しかし今は違う。書くことに使う手法は毎回うんざりするくらい同じだ。勿論Wrestling Observerに限らない。プロレスについて書かれることは全てこれから以降うんざりするくらい同じになっていくだろう。
観戦記ネットの観戦記もそうだ。常連の書き手の視点は次第にどうしようもなくダブってくる。独自で、しかも上記の革新を全て通過した新しい視点は常に求められるが、得ることは難しい。
今回の現代思想のプロレス特集はそれを再確認させてくれた。
勿論、『現代思想:プロレス特集』を読んで、初めてプロレスに対して哲学する者は別の感覚を持つかも知れないが、それは単に伝達速度の違いに過ぎない。戦前まで田舎では盆やひな祭りが1ヶ月遅れだったように単に遅れているだけのことだ。二度ひな祭りをしたいものだけがそれを喜ぶことができる。
プロレスの外部の哲学や社会科学の手法を導入することでプロレスを語ることはできるだろう。しかしそれは皮相的な文章でしかなく、哲学的手法について語ってもプロレスについてはなにも語らない。少なくともプロレスに対する新しい哲学を生まない。『バルト以降のプロレス論は今端緒に付いたばかり』であるとすれば、その筋からのアプローチが何十年も不毛であったことしか意味しない。
プロレス自身が大きく変容すれば、プロレス哲学もまた変容を余儀なくされるが、その萌芽もない。これからは・・・・少なくともしばらくは、『皮肉のプロレス哲学』しか存在を許されないだろう。はたして、プロレス哲学の新たなるパラダイムが得られる時が来るのであろうか、それとも『ノリリンに対する注釈』としてのプロレス哲学は終焉に至るのであろうか?
今のパラダイムの中では終焉しか見えない。
最後に、『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』と言ったのは、勿論Whiteheadではなくて儂である。
ま、それが正しいかどうかはさておき・・・タイトルに訳の分からないアフォリズムを導入するのは儂の手法である。『何故プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈であるのか』が解題される日が来るのかどうか・・・
2002年 7月
Dr. Inside MOATのプロレス哲学講座・第七回 『反論可能性』
『選手はまじめにやっている』
この言葉は聞いたことがあるだろ?この後には二通りの言葉が続く。
一つは『選手はまじめにやっている』→『だから真剣勝負だ』
もう一つは『選手はまじめにやっている』→『だから批判すべきでない』
前者はパラドックスを生むが、そのパラドックスはアリストテレスが論理学の基礎を明らかにした時に解消されたはずだと思っている人がいるかも知れない。しかし現実の決着と論理学は全く別のものなので、儂の様な者にかかったらどっちにでも転ばせられる。だから、ここでは『ごもっとも』と言っておく。
後者も同様な論理上の欠点を持っているが、そのことはこの際おいておく。
それとは別にしても、この言葉は格闘技に関わる人間が口にしては成らない言葉なのだ。何故なら、選手はまじめにやろうが、不真面目にやろうが、客の前で批判されるために努力しているのだから、自己矛盾なのだ。これはガチであろうが、ワークであろうが、客の前で見せることを前提としている格闘技全てに当てはまる。村の腕白相撲からスカイドームでやるレッスルマニアまで全てに当てはまる話だ。(学校教育の一環としての格技などは除くとして)
試合をすると言うことは、科学で言う実験をすると言うことに等しい。科学の実験において、『科学者は真面目にやっているのだから、結果を観察するな・結果をまとめるな・論文を書くな・論文を評価するな』というバカはいない。
全ては批評するという行為の1つだ。
それらの行為が行われることによってはじめて、一つの実験が完了し、科学がかろうじて保たれる。ポパーに依ろうが、クーンに依ろうが、ファイァーベントに依ろうが批評されない実験はあり得ないし、それに依らない科学はあり得ない。
試合は選手の実験だ。選手は鍛えた技や体や練ったスポットを観客の前で見せる。試合を実戦と呼ぶのは愚かだから否定するとしても、試合を行うことは構想し身につけた技術体系の実験になる。
愚か者は開始のゴングが鳴って最後に終了のゴングが鳴ると試合が終わったと感じる。しかしそれは違う。例えば滴定実験をしたとしよう。液体を混ぜて色が変わったところで、『実験終了!』というバカはいない。それじゃ実験じゃなくて水遊びだ。考察を加えて、投稿し、peer reviewを受けて批評されて、公表されてはじめて科学になる。科学になってかろうじてやった実験に意義がある。
試合をゴングから判定までと思っているのなら、水遊びと同様、マットプレーだ。いやマットプレーなら銭が取れるから、チイチイパッパダンスと言っておこう。園児がやれば身内だけ喜んで拍手してくれる。近所の園庭でもどこかの会場でも起こっていることだ。
と言うわけで、彼らにポパーの素晴らしい職業訓のその10をあげよう。
12箇条の職業倫理
その10「誤りを発見し修正するために我々は他の人間を必要とする。とりわけ異なった環境の元で異なった理念の元で育った人間を必要とすることを自覚せねばならない。」
Dr. Inside MOATのプロレス哲学講座・第18回: 『佐藤江利子はなぜ生き残っ・・・
Dr. Inside MOATのプロレス哲学講座・第18回: :『佐藤江利子はなぜ生き残ったのか?』 2004年9月頃
ノリリン 「『プロレス哲学は全てノリリンに対する注釈である』あるいは『プロレス哲学の終焉』 」より
タナカがその本で打ち出したシュート活字の概念は静かに広がり、『流血の魔術・最強の演技』のようなフォロワーの登場もあいまって、今や爆発の時期を迎えている。
特に最近プロレスに悩み出した初心者には絶好の1冊となろう。
2:林直道 著 『経済学入門』1981年
『社会主義とはまさに経済発展法則に基づいて客観的必然的に生み出されるものである』230p
『第一に、彼ら(労働者階級)は一切の生産手段を持たぬプロレタリアとして搾取を一掃する革命を徹底的にやり抜くことが出来る。・・・利己心を捨て仲間同士強力団結し盲動を避けて組織的に行動すると言う性質を身につけるようになる』232p
『社会主義は資本主義と比べて次ぎの点で根本的に違っている。第一は人間の人間による搾取の消滅である』235p
『社会主義が資本主義と根本的に異なる第二の点は経済の計画的・意図的統制が可能なことである・・・・・中略・・・・・・これと関連して社会主義では資本主義よりも経済発展の速度が遙かに急速である』236p
『共産主義段階には生産性が増大し共同社会的富のあらゆる泉がゆたかにわき出し労働はもはや単に生活のための手段ではなく労働そのものが第一の生活欲求となる・・・・中略・・・それは人類の経済制度の最終形態である』238p
一説によるとマルクス自身は自分のworkにある共産主義革命を信じてはいなかったそうだ。workだな。マル経学者はバカではない。知能だってそこそこ優れているはずだ。 しかし現実はマル経学者から隠されている。つまりマルクス・マークかマルクス・シュマークと言うことになる。
マル経学者や共産主義者は全ての出来事を共産主義の理論の中で説明する。もし説明が会わなければ、無視するか、怒り出す。もっとも、確たる覚悟があれば教条で説明できないものなどない。頑固な教条主義者となると、たったひとつの理論でなんだんって説明してしまう。もっとも有名で、とんちキな事件はルイセンコ事件だ。(知らない人は各自調べるように)
そして、教条主義者は何でも説明できる(と思っている)理論を持っている、まさにそのことにより、進歩とは無縁である。
と言うわけで、その思い出を胸に、林直道の『経済学入門』はタンスの奥にしまおう。
3:タダシ☆タナカ 著『日本プロレス帝国崩壊』2004年
しかし、私の読む限り、シュート活字主義者タナカはその枠から一歩もでれないでいる。まさに教条主義に陥っている。
どんな都合の悪い事態の説明を強いられても、マル経学者がマルクスの枠の考え方から一歩もでれないように。
『情報公開』というシュート活字のキーポイントの価値を上げたいがために支離滅裂である。『競技ではない勝敗はブッカーが決めます』と言う言葉でスポンサーが付いたりはしない。『競技』であればスポンサーが付かないのであれば、8月に我々が見たあの5つの輪っかのついた巨大スポーツ商業イベントはなんだったのか?情報公開すればスポンサーが付くのであれば、アメリカにメジャープロレス団体がWWEしかないのは何故なのか?スポンサーにとって大事なのはご託ではなく、安定した人気だ。誰が考えても一番大事なのは投下した資本に見合う見返りがあるかどうかだからだ。TVなら何人がCMを見てくれるかだ。
だから、どう考えてもスポンサー獲得により重要な要件は情報公開よりも面白いと言うことだろう。なぜなら情報公開など容易いからだ。どんな団体でもやろうと思えば出来る。真実は容易い、しかし、”面白い”というのは難しい。誰でも出来ることではない。 Vinceが言っているとおりだ。
しかもタナカ自身の分析においても”『月曜TV戦争』が成功したわけ(p114)”には『情報公開』は入っていない。
逆に情報公開できない部分があっても、大スポンサーが付くのは最近のプロ野球騒動やK1・DSEの事件が物語っている。
ここで私は、タナカが『シュート活字』を経過していないことを断定する。
Dr. Inside MOATのプロレス哲学講座・第11回 『愛について』 2004年9月
『プロレス』ってなんだろう。
日本プロレス最高のプロレスラーである武藤敬司は『Natural Bone Master』と名乗り『プロレス・ラブ』を打ち出した。しかし皮肉なことにそれは、プロ(レスラー)中のプロ(レスラー)であった武藤/ムタがその能力の大半を使い果たしたあとのことであった。プロ中のプロがプロであることに苦しくなった時、『愛!』と語る。
『愛』ってなんだろう。
『プロレス』を語る時、そして総合格闘技の試合で消極的に膠着した時、よく『プロ』と言う言葉がキーワードになる。この場合の『プロ』にはポジティブな意味が込められている。未熟で責任感の乏しいもの、見てつまらないものに対するアンチテーゼである。しかし『責任感があって見て面白いもの』=『プロ』ではあるまい。なぜなら『プロ』がやってもつまらないものはつまらないし、アマチュアだって責任感を持って面白いものを見せることがある。大体アマチュアほど真面目でうまくやろうとしているものだ。『プロ』の定義は後でするとして、このポジティブな意味あいを持つ『プロ』という言葉をここではとりあえずPositive(p)『プロ』としておく。
そもそも昔はスポーツにおける『プロ』にはポジティブな意味はなかった。『プロ』は紳士が行うスポーツに体、を動かすことで報酬をうける労働者階級が混入してくることを除外するために作られた差別用語だ。だから一度でもスポーツで報酬を得たものは『プロ』に当たる。もともとの『プロ』には、アマチュアではないというだけの意味しかない。高度な技能を持とうが持つまいが、アマチュアに属さない選手は全て『プロ』になる。
今でもn『プロ』の定義は生きている。日本の学生野球・社会人野球において、アマチュアとは”n『プロ』ではない”ということだ。技術や責任感や選手としての価値とは関係ない。一度でもn『プロ』に属してしまったものはもはや汚れているので禊を果たさないとアマチュアになれない。そもそも『職業(プロ)野球』とは『高度な技術を持つ野球専門の契約プロによって行われる野球』という意味ではない。その昔出来た頃には大学野球の方がプロより強いと思われていたくらいだ。
勿論全ての歴史有る言葉は多義的である。『プロ』もNegative-Positive以外にいくつかの意味を持つ。国ごとに意味が違うであろうし、時代によっても意味合いは違うであろう。特に、富国強兵の国策としてスポーツが国主導で導入された日本では数十年前まで特殊な意味を持った可能性もある。もしかしたら欧米を除けば世界的にはそれが一般的なものかもしれない。
一方、『プロ』によく似た言葉に『エロ』がある。(ま、単に字面が似ているだけなんだが)・・・『エロ』は『プロ』によって支えられている。『エロ』の経済系である風俗は性を売る契約『プロ』=風俗嬢が行う娯楽である。『エロ』のうちイメクラでは『アマチュア=素人』であることが高校野球並みに重視される。ここから生まれるのが高校野球イメクラ説なのだが、それはまた別の話。・・・金もらってやってて『素人娘』も糞もないもんだが・・・
そのポイントだけを押さえておいて、次は芸術の話をする。
例えば、歌手の場合。浜崎あゆみやあややをNegativeであれPositiveであれ『プロ』歌手とは言わない。『プロ歌手』と言う言葉はインチキ芸能プロの募集でしか見たことがない。歌手が商業的に成功したり、聴衆に受けたりすることと歌唱技術にはおぼろげな相関関係しかないため、どの部分をp『プロ』と評価していいか分からない。
ここまで、『おっさん』『風俗』『芸術』『芸能』を俯瞰して『プロ』という言葉の意味を考えてきた。「p『プロ』という評価は技術面を評して与えられる」という割と納得しやすい通りのいい結論に至る。
ここでまたスポーツに戻る。
つまり、お金をもらっている選手が高い技術を見せても、そのことは『プロ○○』と呼ばれる理由にはならない。アマチュアとプロが『同じルールで行われる』すなわち、『同じスポーツ』では、サッカーであれ、バレーであれ、VT/MMAであれ、p『プロ』であること本質とするスポーツではないので、選手にp『プロ』を求めることは不可能and/or無意味なのだ。そもそも彼らは幾ら強くても幾ら技術が高くても『契約プロ』選手であって、直接客に対して機能するための技術をもつp『プロ』ではないだからだ。特にVT/MMAでp『プロ』を求めると限りなくプロレスに近づいてしまう。
『プロ』がつくとスポーツが変わるものに『プロ・シンクロナイズドスイミング』や『プロ・フィギュアスケート』がある。
p『プロ』という評価は単に高い技術や職業的な責任感に対する言葉ではない。おっさんの職業人をプロと呼ぶ時は、技術とお金が等価なのだ。直接役に立つ技術をもって働くものがプロである。名工は『プロ』の技を持つが、芸術家の価値を『プロ』と言う言葉で評価しない。これは名工は直接技術を持って作品を作りお客に還元されるので即ち、プロであるが、芸術家の芸術の部分は技術で語られる訳ではない。
但し、p『プロ』の文脈に属するからと言って必ずしも成功するわけでも価値を持つわけでもない。ソープがいつも楽しいわけでないし、p『プロ』に属さないことは”芸術品”の価値に影響しない、p『プロ』に属しないスポーツも充分面白い。つまりp『プロ』かどうかは、面白いかどうかとは無関係だ。
じゃあ、野球やその手のnon-p『プロ』スポーツにプロを感じることはないのか?と言えば、勿論ある。
新庄は自分の強肩のためにランナーがホームに突入しないことを憂いて、ランナーセカンドの時のセンター前ヒットではわざとスタートを遅らせて、ランナーの突入を誘うという。リーグ首位打者の左バッターがバッターボックスにいるのにホームスチールをしたりもする。どちらも技術や身体能力に裏付けられたプレーだが、ルール上の野球の目的に合致しているとは言い切れない。お金を払う客の方を向いた技術だ。だからこれこそが p『プロ』のプレーだ。
プロレスは『客を直接コントロールするための技術体系をもったレスリング』だから、p『プロ』+『レス/レスリング』である。プロレスには技術体系がないという馬鹿げた意見があるが、勿論技術体系はある。対して『ルール上の勝利を目指すレスリングをアマレス』と呼ぶ。プロレスでは観客を欺いて・リードして試合を見せる技術が大いに発達している。対戦相手は観客だ。ここでは書かないが、それはそもそもレスリングの発祥の時に備わっていた要素の1つが正統に発達して出来上がったものだ。『アマ・レス』はそのもう一方の流れである。
ここまでつらつらと想念が続き、Dr. Inside MOATは店の前に止められた車の中で友の車番をしながら、いくつかの項目にまとめてみた。
なぜならばその技術体系をもてば極めてプロレスに近くなってしまう。
Vale Tudeの選手やn『プロ』であるところのプロ野球の選手にp『プロ』を求めてはいけない。ではどうするのか?第六項にあるように、『プロ』であれば面白いわけではないし、『プロ』でなくても面白いものは面白い。だから『プロ』じゃなくても全く構わない。
注:『プロボクシング』-『アマチュアボクシング』の関係は『プロ野球』-『アマチュア野球』とは異なる。『プロボクシング』と『アマチュアボクシング』は別のルールで行われる、即ち似て非なるスポーツだからだ。プロ野球の選手が大挙してオリンピックに行ってもプロボクサーが大挙してオリンピックに押しかけることはない。
緊急グルメレポート!
飲み放題メニューに『生ビール!』と書いてあって発泡酒を出すのは詐欺。
しかし詐欺は許せる。
スナイパーが人を殺しても
暴走族がスピード違反しても
相撲取りが八百長しても
経済学の教授が痴漢しても
許せる
それはたとえ法律に違反しても、本来それがそうあるべき事をまっすぐ果たしているだけだからだ。
しかし、居酒屋やレストランが生ビールと言って発泡酒を出すのは許せん。
それは、
SPが要人を暗殺したり
消防団がたばこをポイ捨てしたり
相撲協会が裁判に勝ったり
ソープが振り替えしたり
するようなもんだ。
食文化の破壊を飲食店がやってたらだめだ。発泡酒は税制を抜けるためだけのもので、それ以外の価値はない。ビールという素晴らしい飲み物が作った食文化の破壊者でしかない。
絶対許せない。ま、許さないだけだが。
本物のビール出せと言ったらピッチャー1杯3000円取ったのも許せん・・・ま、こっちは許してもいい。
この店だ>ココテロ 松山1番町
Dr. Inside MOATのプロレス哲学講座・第二回 『悲劇の誕生』のおわり (02頃)
さて、第二回だ。
前回儂は、1行ですむ話をテクニカルタームをまぶしてさもありがたげに語るのを青土社文体と呼んだ。しかし、実はそれは人類文化上の宿痾と言ってもいいもので、特に青土社が悪いわけでも、日本人が悪いわけでも、ましてや儂が悪いわけでもない。そもそも、フッサールが何を目指そうと、哲学科に入学試験があろうと、ラカンがあかんかろうと、哲学は単にアフォリズムであるか、ちょっと長目のアフォリズムでしかない。
今回はアフォリズムの総帥F・ニーチェの『悲劇の誕生』を取り上げる。
『悲劇の誕生』はプロレスにかぶせやすい話だと思うんだが、ネットで検索しても英文和文を問わずこれらを並べて論じたものはないようだ。
ベビーとヒールをアポロ的なものとディオニュソス的なものに2分して論じてみたり、『フォールの瞬間にディオニュソス的な破壊と1・2・3と正数を数えるアポロ的な行為が統合されて真実の時が生じる』と言ってみたり、『アポロンとディオニュソスの対立によって成り立つギリシャ悲劇は、ソクラテスが純粋な理性で死を選んだ時に知的なソクラテス喜劇に殺された。アポロンとディオニュソスの対立に擬されるプロレスも、純粋に金額で死を選んだ高田に殺されかけた』とか言ってみたりすることも出来る。
ま、確かに、各々にいて青土社文章をでっち上げようと思えば出来るからでっち上げてもいいのだが、今回の関心は新日のファンなので、そこら辺の話はしない。
今回考えるのは、沢山のブ~イングを浴びながら、それでも日本最大で、世界最大クラスの観客動員力を持つ新日とそのファンのことだ。
新日の最大の危機は観客の変貌にあると言われる。観客の中からコーラス隊が消えているのだ。
ディオニソス劇場
コーラス隊とはなんぞや?ギリシャの劇場は扇状で中央に向かってすり鉢状に下っている。扇の中央に舞台があり、その外にコーラス隊が、後ろに観客が座る。当たり前のことだがコーラス隊は舞台に合わせてコーラスをする。
『悲劇の誕生』の7~9章によるとギリシャ悲劇にとってコーラス隊とは救済であり、対話全体であり、根元であり、αでありΩであり、世界のコアから真実を告げる賢者だそうだ。『悲劇の誕生』はニーチェ自身が出来損ないと呼ぶ処女作で、ニーチェのご多分に漏れず迂遠であるし、論理も破綻している。しかし、梅毒が進んでないので比較的分かりやすい。ざっと書くとこういうことだ。
『コーラス隊は理想的な観客』と19世紀ドイツの批評家A・W・シュレーゲルが言った。
『理想的な観客』と呼ぶのはある意味で正しいが、根本的な点で間違っている。何故ならコーラス隊は舞台上の登場人物や奇跡を全て事実としてみている、と言う立場で歌う。勿論コーラス隊を構成する個人として信じているわけではないが、立場としてはそうだ。一方観客は舞台を劇として見るのであって、いくら何でも現実としてみることなんてあり得ない。それでは『芸術』とは言えない。『催眠術』だ。
コーラス隊は、観客と視点が違う以上『理想的な観客』ではない。コーラス隊の役割は観客と同じ感動を体験することではなく、舞台の上を現実として見て翻訳し、舞台上を現実としてみない観客と舞台の間に熱狂を繋ぐことにある。ディオゲネス的熱狂を音楽や叫びと共に観客に伝え巻き込む。決して全観客が舞台を現実としてみることが理想なのではない。舞台の上を現実としてみる一部がいることが、悲劇の成立に極めて重要なのだ。
プロレスは神が常に死に続けるジャンルである。ここでいう神が死ぬとは試合の終わるごとにレスラーのうちの一人がフォールされるという意味ではない。
まず、一人の少年がはじめてファンとなったとき、リング上には神話がある。神々は闘い死を繰り返すが、再生も繰り返す。ファンが信じている限り神話は死なない。しかし、プロレスファンは循環する。時がたつうちに、ファン個人の中で神話自身が死に、リング上の神聖さが失われ、神々も(一部の人にとっては)永遠に生き返らない。日本において、プロレスは新しいファン達の中で常に神が死に続け、そのファン達が不十分に悟ったものに転生するジャンルである。
ギリシャ悲劇同様プロレスにおいても、リング上を現実としてみるコーラス隊の存在が重要だ。プロレスは、リング上の出来事に対する誤解がファンの中に自動的に『コーラス隊』を生成する。神の死を経験したプロレスの観客が『悲劇の誕生』の『観客』に当たる。成ったばかりの純真なファンがコーラス隊だ。彼らが既に神の死を経験した観客にリング上のプロレスを成立させる。新日は日本で最大のコーラス隊と神の死んだ観客を持つ。今の新日をプロレスファンの多くを占める不十分に悟ったものが新日を不十分に感じる理由はコーラス隊の力不足の所為なのだ。新日が不十分に悟った層に向けてプロレスを行ってきたツケだろう。今のプロレスファンの場合の特に大きな問題は、多くのファンが最初から不十分に悟ったものとして入ってくることだ。業界の構造的なものだし、日本の文化風土も関係しているので方向転換は難しいかも知れない。
地方巡業はまだいい。たまに回ってくる祭りとしてプロレスを見に行く客を相手にしている場合はまだ多くのコーラス隊が会場に現れる。しかし、特に大都市部においてはファンは多くの興行の中から積極的に選択して会場に行く。会場に現れる客のうちのコーラス隊の割合が下がり、観客はコーラス隊抜きのプロレスを見せられてしまう。
構造主義はコーラスをしないらしい。禿頭と蝙男が解剖台の上で巡り会ったとしても、プロレスを解剖台の上に載せて楽しむ人は少ないだろう。実際コーラス隊抜きでも楽しめるし、解剖台の上で踊っている人もいるが、その数はインディー興行の会場にいる人数を超えない。それはそれでいいんだが・・・
会場と違い、TVでのコーラス隊はアナウンサーが勤める。だからアナウンサーは重要だ。辻が世間でバカにされているほどアホだとは儂は思わない。しかし、雑誌でカミングアウトを語り、長州の本を書き、生ゴンの司会をしてしまうようではコーラス隊として適当とは言えない。リング上では選手がセルを繰り返しているのに、妙に賢いふりをしたいアナウンサーなんか要らない。これは勿論辻に限った話ではない。
新日の復活はコーラス隊の復活にかかっている。
ここまで読んで違和感を感じた人がいるだろう。『新日がつまんないのは統一の取れていないストーリーライン、ファンの方を向いてない首脳部、有用な人材の流出、古い企業独特の硬直のせいだってのが一番の理由で、新規ファンの減少は結果に過ぎない。』
なるほど、素直に考えればその通り。ま、哲学用語をプロレスに持ち込んだところで、出来上がるものはこの程度のもんだと思って読んで貰っていい。
(ここまで来るとこの文章からある帰結が生じる。
プロレスはカミングアウトなんかすべきではない。求められるのは情報の棲み分けであって、一般紙や週ゴン・プロクラスの雑誌までシュート活字を取る必要はない・・・というよりそんなことは有害だ。しかしそれはまた別の話)
PS:ニーチェは悲劇が元々コーラス隊だけで構成されており、あとから舞台が付いたという伝承を元に、”観客それ自身が本来の形態であるジャンルの芸術とはいったい何であろう?”と混ぜ返すのではあるが、それもまた別の話