シベリア強制抑留 望郷の叫び 二十九
※土日祝日は中村紀雄著「シベリア強制抑留 望郷の叫び」を連載します。
六 収容所跡、抑留者がつくった建造物を見る
7月21日の午後は、パタポア女史、ドミトリーの案内でハバロフスク市内の多くの場所を回った。
主な調査先は、第16収容所本部跡、第45特別収容所跡(現診療所)、元共産党大学(現極東公務員アカデミー)、プラチナアリーナ、TV塔下の建物、ジナモ公園の正面、ライオン像、日本人建設の住宅群、平和慰霊公苑、コンサートホール、アムールホテル等々である。
第16、第21収容所跡地等は草が茂り、建物等はなく、ここに収容所がありましたという説明を受けた。現在は何の変哲もない荒野であるが、かつては多くの日本人抑留者がここから強制労働に追い立てられて行ったのであろう。零下30度、40度という酷寒の下でろくな食べ物もなく栄養失調でバタバタと倒れた人々のことを想像すると胸が痛む。21世紀の「奴隷」が半世紀前、ここに現実に存在したのだ。そう思いながら振り返ると塩原さんと青柳さんは、かつての自分たちの姿を思い出しているのか、夏草のあたりをじっと見詰め立ち尽くした。
ハバロフスクの収容所に長くいた塩原さんは、ハバロフスクの収容所から強制労働の現場へ駆り立てられる道中の出来事を以前次のように語ったことがある。
「珍しそうに私たちを見ている子どもたちがいると、私たちは皆、食べ物を下さい、と手を伸ばすのです。すると面白がって鳩に豆をやるように子どもたちはわずかな食べ物を投げるのです。私たちは争ってそれを拾いました。まさに餓鬼ですよ」
食べ物をねだるにも、ロシア語を使うと、効果が大きく違うことに気付いた塩原さんはロシア語を必死で勉強したという。塩原さんの頭には死線をさまよった時のさまざまな光景が甦っているのであろう。
つづく