切り取りと配列  世界を切り取る(2)

 

(承前)

4. 基本構成単位としてのショット

 

ショットを見ること

 

 ショット(shot)とは、カメラが回り始めてから止まるまで継続して撮影された映像のことである。標準速度では映画は1秒間に24コマ、テレビやビデオは1秒間に30フレーム撮影され、その1コマ1コマは写真と同じ静止画像の連続になっている。1コマという単位を別にすれば、映画やビデオで映像を構成し組み立てる際の最小の単位となるのが1ショットである(1カットと呼ぶこともある)。ショットはフレームや構図に一定の時間が伴ったものと考えることもできる。

 ふだん私たちはショットを自覚せずに映画やテレビを見ることに慣れている。本来ばらばらなショットの集まりなのだが、音楽やせりふの連続、そしてスムーズな画面のつながりがそれを自然で連続したものに感じさせ、ショットの切れ目を「見えない」ようにしているためである。作り手の立場から映像を分析的に見るには、逆に、この切れ目を自覚しながらショットがどう組み立てられているか、注意深く見なければならない。

 文学においても、多くの読者は「筋」だけを読んでしまうが、経験豊富な読書家や小説家・批評家など専門的な読者はその筋がどう書かれているか、つまり「言葉」がどう使われ、どう組み立てられているかを意識して読むのと同じである。

 映画では、ショットがあまりにスムーズにつながれていると、観客は「画面」を見ていながら無意識的にストーリーだけを追ってしまう。それだけでなく、二人の人物の対話を交互に切り替えながら見せていく手法のように、単に情景を提示するだけでなく、ショットの切り替えのなかでテンションを高めたり心理的に引きこんだりする効果まである。そうした手法はドラマだけでなく、たとえば相撲や野球やテニスのようなスポーツのテレビ中継でも活用されている(スポーツ中継のショットがどのように切り替えられているか、一度注意して見ていただきたい)。

 観客がスクリーン上に「実際に」目にしているものは、さまざまなショットが交替しながら関連づけられ組み立てられていく様なのである。まずそれを「見る」ことが映像作家の行なった作業を理解する糸口となるのだ。

 

ショットの選択がスタイルを決める

 

 ミュージックビデオのきわめて短いショットの連続から、テオ・アンゲロプロス(1935-2012, ギリシア, 代表作《旅芸人の記録》75年《ユリシーズの瞳》95年)やヤンチョー・ミクローシュ(1921-2014, ハンガリー, 代表作《密告の砦》65年《ハンガリア狂詩曲》78年)のしばしば10分以上におよぶ極端な長回しまで、また人物が見えないほど遠景の超ロングから顕微鏡的な超アップまで、ショットはそのサイズにおいても長さにおいてもおよそ均一とはほど遠い。

"The Round-Up(Szegénylegények)" by Jancsó Miklós(「密告の砦」予告編)

 

 こうしたショットをどう選択し、どう組み合わせるかによって、映画作品における「スタイル(文体)」が決まってくる。さらに、ショットは作者と世界の関わり方を伝える重要な基礎ともなるのである。

 たとえば、小津安二郎の映画では、きわめて厳密な規則(ローアングル、幾何学的な人物配置、正面向きの顔、場面転換での風景ショットなど)に従ったショットが丹念に積み重ねられてスタイルが出来上がっているが、そこではカメラは固定されていることが多く、カメラの移動は例外中の例外としてしか起こらない。画面の中で人物は動いても、カメラ自体(ショットのフレーム)は動かない。そこから無駄のない安定した画面の連続という印象が生まれるが、それは小津安二郎の描こうとした世界観ともつながる。

 これに対し、アラン・レネやピーター・グリーナウェイの映画ではたえずカメラが横移動し、そのゆるやかな移動の速度と広がってゆく空間とが特有のスタイルを形成している。そこでは小津映画のようにショットはこまかく分割されず、時空間の連続性を強調しながら果てしない延長感覚から不思議な幻想性を生みだしていく。

(アラン・レネ「去年マリエンバートで」61予告編、撮影はサッシャ・ヴィエルニー)

 また、現代の映画でゴダールなどがしばしば強調しているのは、ショット本来のばらばらな「断片性」であり、そこでは小津のような連続し安定した世界はもはや成立しえない。

 

時間にもとづく芸術としての映像

 

 映画であれビデオアートであれ映像作品というものの最大の特質は「時間にもとづく(time-based)」という点であり、時間の操作や省略が表現の本質とつながっている。撮影とは私たちが生きる世界(時空間連続体としての現実)から一定の時間を切り取ることでもあり、観客もまた(本や絵画と違って)作品を見るさいに一定の決まった時間を拘束されるのである。

 ビデオ・インスタレーションやCD-ROMなどでは、こうした映像の「時間にもとづく」リニア(直線的)な性格が、空間的な広がり・並置へと転換され、時間に拘束される要素が弱められている。そのため、映像をつかいながらも、始まりも終わりもない循環的な時間がしばしば作り出され、観客も好きな時間だけ作品に接することができるが、これは本来「時間にもとづく」表現が「空間化」されている例である。

 音楽とともに時間というベースの上で展開する映画が、よく「省略の芸術」といわれるのは、ふつう90分や100分のなかで何十年、何百年の出来事が描かれ、上映時間と物語の時間が一致することは例外的にしかないからである。45分間かけて部屋の全景から壁の写真へとズームが徐々にアップしつづけていくマイケル・スノウの実験映画《波長》(67年)ですら描かれているのは45分間の出来事ではない。

 上映時間と物語の時間を一致させようと試みた例外的作品のうち著名なものとして、ガンの診断結果を待つ女性主人公の不安な心理を追ったアニェス・ヴァルダの《5時から7時までのクレオ》(62年, 90分)、映画全体がひとつづきの1ショットで撮られたような印象を与えるヒッチコックの《ロープ》(48年, 81分)、最近では90分間のサスペンスを描いたジョン・バダムの《ニック・オブ・タイム》(95年, 89分)などがある。

 映画における時間の圧縮や省略は、ショットとショットのあいだ、シーンとシーンのあいだ(ときにはコマとコマのあいだ)で起こっている。そこに時間や空間の飛躍が見えない形で隠されているともいえる。そうした時間の圧縮や省略は、当然ながらドキュメンタリー映画やテレビのニュースでも行なわれているのである。

ここまで

 

5. ショットの配列と時間構成

 

単一のショットから細分化されたショットへ

 

 ショットを組み合わせること、つまり「編集」は、映像表現のもっとも本質的な要素をなしている。それは、一定の条件のなかで「時間と空間の関係」を組み立てコントロールすることにほかならない。映画の初期、とくにトーキー以前のサイレント映画時代にはさまざまな試行錯誤と多様な実験とがくりかえされ、そのなかから編みだされた編集テクニックは時代とともに複雑化していった。

 リュミエール兄弟の最初の映画は固定されたカメラで1ショットのみで撮られていた(当時のフィルムの長さは17mで、時間にして50秒ほど)。それは単一の視点から現実の時間をそのまま切りとったものだった。ついでジョルジュ・メリエスのように物語を語ろうとすると、紙芝居のように1場面1場面をつぎたしていく(1場面が固定カメラの1ショット)という形でショットが不連続にふえていき、物語(フィクション)のなかの時間と現実の時間(上映に要する時間)も明らかにずれていった。

 さらに物語を視覚的に語るためにショットの細分化や「つなぎ」(動きや視線の連続性)の洗練、クロースアップの導入がすすめられ、また、「同時進行する2つ(以上)の出来事」とか「遠く離れた場所の間の関係」(電話の会話など)といった、ほんらい1台のカメラでは描けないはずの状況を物語る必要から、ABABという系統的なショットの交替の手法(パラレル・アクション)や画面を分割し同時に見せる手法(スプリット・スクリーン)も登場してくる。そこでは観客が「同時性」という文脈を理解することが、意味了解の前提となっていた(過去の回想シーンの場合には、「現在/過去」という文脈になる)。

 こうして「現実の時空間」とは独立した別の、物語的に連続した「映画の時空間」が確立していくなかで、映画が誕生して10~15年もするとショットのサイズ・長短・関係性は複雑に組み合わされるようになり、それと同時に現在の映画のように長尺化し、物語も小説なみに複雑になっていった。エポックメイキングな監督として必ず名前のあがるアメリカのデイヴィッド・W・グリフィスは、《国民の創生》(15年)や《イントレランス》(16年)で並行する出来事や異なる時代の物語を手に汗にぎるサスペンスで交替させることに成功し、観客にも時間や空間がドラマ的に再構築されていることが理解されたのである。

 こうして確立されたショットの古典的な組み立て法は、現在でも映画・テレビの基礎的テクニックとして使われる一方で、現代映画のすぐれた作品はそうした古典的組み立て法とは異なるショットの使い方を探究している。

 

現実と異なる時間構造の創出

 

 小津安二郎の《東京物語》は2時間15分に768ショットある。現代の長編劇映画は平均して1000-1500ぐらいのショットで構成されていることが多いが、極端に少ないものでは100-200ショットという例もある(アンゲロプロスやヤンチョーなど)。

 それらのショットはまったくばらばらに組み立てられるのではなく、ショットが集まってシーン(場面、場)を構成し、シーンが集まってシークエンス(エピソードのまとまり、小説の「章」などに該当)を構成するというように階層化されて物語を組み立てている。こうした構築的な編集作業、つまりショットの細分化(シナリオ・撮影段階での「カット割り」)と撮影されたショットの配列の構造化を通じて、時間を省略するだけでなく、現実と異なる時間構造に作り替えることも可能になる。

 たとえば、松本俊夫の《ドグラ・マグラ》(88年)では、夢野久作の原作の構造を踏襲してラストシーンがファーストシーンに戻る「円環構造」となっている。劇中で時間は直線的に進行しているようにみえるのだが、ラストが円環状に閉じてしまうことで出口のない不気味な「胎児の夢」というモチーフを強調した。主人公が未来の自分の死を目撃してしまうクリス・マルケルの傑作短編《ラ・ジュテ》(62年)やそれをハリウッドで近未来SFとしてリメイクした《12モンキーズ》(95年、テリー・ギリアム監督)でも、《ドグラ・マグラ》と似たようなファーストシーンとラストの円環構造を使い、不思議な感覚のなかで謎が解かれる結末(物語の語り手はすでに死んでいる)を作りだした。

 もうすこし複雑な例としては、ハンガリーのタラ・ベーラによる7時間半の大作《サタンタンゴ》(91-93年)がある。長回し撮影を多用した映画だが、1つのエピソードが終り次のエピソードになると、途中で前のエピソードの出来事が別の視点からくり返され、時間が行きつ戻りつ並行し交差しながら進んでいることが判明してくる。しかし、なかなか物語の全貌がみえず、数時間たって少しはわかってくるものの、結局ラストシーンはファーストシーンに戻って終わるのである。ここでは観客の体験する「時間」が物語の内容以上に重視されているともいえ、それが円環的に回帰してしまうことで、迷宮をさまようような体験となっていく。

 

 同じ時点が1本の映画の中で何度もくり返される例にはジム・ジャームッシュの《ミステリー・トレイン》(89年)もある。メンフィスを舞台に3話のエピソードで構成されたこの映画のなかでは、同じ銃声の音が各エピソードのなかにくり返し出てくることで、一見無関係にみえる3つの話がつながる仕掛けになっていた。

 また、夢を映像化したマヤ・デレンの《午後の網目》(43年)は「螺旋的構造」をもっていた。黒い影のような人物を追って自宅のドアをあけて入るという同じシチュエーションのくり返しが、次々と複雑な自己分裂を生みだしていき、「夢の中の夢の中の夢……」という入子的構造を実現した。円環ではない螺旋的循環なので、ラストシーン(作者が自演する主人公の死)はファーストシーン(白い花をもつ手)に回帰はしない。

(「午後の網目」の中で主人公を演じる作者マヤ・デレン)

 このように時空間連続体の「関節をはずし」、現実にない時間構造を作り出せる可能性が、編集(ショットの組み立て)のなかにはつねに隠されているのである。

 

 

6. 断片からの創造:モンタージュとコラージュ

 

モンタージュの発見

 

 フィルム等の「編集」を英語では「カッティング」または「エディティング」といい、フランス語では「モンタージュ」と呼んでいる(機械などを「組み立てる」意のフランス語"monter"から)。

 しかし、この「モンタージュ」という言葉は、映像の編集作業全般をさすだけでなく、1917年の革命直後のロシア(旧ソ連)の映画作家たちによって特別な意味を与えられた言葉でもあった。

 今日でもエイゼンシュテインやプドフキンの「モンタージュ理論」として知られているものだが、彼らロシアの革新的監督たちは、本来ばらばらに撮影された無関係なショットでも組み合わせ方次第で観客に一定の意味や心理を生み出すというレフ・クレショフの実験を通して、編集作業に含まれる創造的側面に着目していったのである。

 クレショフの実験とは、無表情な俳優の同じ顔のアップが次にくるショット(赤ん坊、死者、スープ皿など)によって異なる感情(優しさ、悲しみ、食欲など)を観客に感じさせるといういわゆる「クレショフ効果」をはじめ、別々の女性の身体のアップからひとりの架空の女性を作り上げるとか、別々の場所で撮られた映像から架空の土地を作り出す(モスクワにホワイトハウスがある等)といったものであった。

 ロシア・アヴァンギャルドと呼ばれた前衛芸術運動とマルクス主義思想を背景にした当時のロシアの監督たちは、ハリウッド映画のスター主義、商業的な娯楽主義、そして情緒的なメロドラマ性などを否定し、観客が批判的距離をとると同時に劇的な感動も味わえるような革命映画を作りたいと考えていた。そういう映画を作るための実験や理論のなかから彼らが発見した、観客に知的かつ心理的に働きかける編集効果を、機械の組み立てからの比喩で「モンタージュ」と命名したのである(この名称には当時の前衛芸術にしばしばみられた「機械主義」の発想が反映していると考えることができる)。

 70分たらずの映画が1300ものショットに細分化されたセルゲイ・エイゼンシュテインの《戦艦ポチョムキン》(25年)など、誰もそれを作り直せぬほどに独創的で緻密な編集テクニックで、いま見ても驚嘆させられる。なかでも、第4部の「オデッサの階段」のシークエンスは、映画史上に残る名場面としてあまりに有名である。エイゼンシュテインはモンタージュを(煉瓦を積みあげるような)単なるショットの接合とは考えなかった。彼はむしろショットを、身体(映画全体)を構成する細胞のようなものとして、詩的に情熱的に捉えようとした。1929年に彼はこう書いている。

 「ショットは、モンタージュの<要素>では全然ない。

 ショット──これはモンタージュの<細胞>である。弁証法的跳躍の向う岸へ向かう、単一的連鎖のなかでこそ、ショットはモンタージュになる。

 モンタージュを、したがって、その胚種であるショットを特徴づけているのは、いったい何だろうか。

 それは衝突である。並び合う二つの断片(カット)の葛藤。葛藤。衝突である。」(鴻英良訳「枠を超えて──モンタージュと日本文化」、岩本憲児編『エイゼンシュテイン解読』所収、フィルムアート社)

 ロシアの若き監督たちにとって、モンタージュとは、観客が現実をただ受動的にながめるのでなく、それを「検証し、見つめ、考え、学び、理解する」知的・批判的思考を喚起するようにショットを組み立てることだった。それは映画というメディアを通して革命のイデオロギーを民衆に伝えることでもあったが、モンタージュという考え方はそれを越えて1920-30年代の世界の映画全般の形式に画期的な革新をもたらしたといえる(たとえば1930年代の日本では、エイゼンシュテインの《戦艦ポチョムキン》は内務省により上映禁止とされたが、映画雑誌や理論書を通して映画のくわしい内容やエイゼンシュテインの理論的主張は広く知られ、映画人や知識人に大きな影響を与えた)。

 

コラージュとの関連

 

 一方、同時代のロシアのもうひとりの天才的なモンタージュ主義者、ジガ・ヴェルトフは、立体未来派と呼ばれたロシアの詩や美術の前衛運動から出発し、ドキュメンタリー映画に身を投じて「映画眼(キノキ)」というグループを結成して、さまざまな宣言を発表したり、ニュース映画《キノ・プラウダ(映画真実)》(22-25年)や長編ドキュメンタリー《世界の6分の1》(26年)や《ドンバス交響曲・熱狂》(30年)を作った。

 ジガ・ヴェルトフの代表作《カメラを持った男》(29年)では、ひとりのニュース映画カメラマンとそのカメラを主人公に、その映画の撮影や編集のプロセス自体までを観客に見せるという過激な「メタフィルム」(映画それ自体に言及する映画)を作り出した。そこではモスクワの一日の生活を、物語的な時間進行によって見せるのではなく、いくつかの大きなテーマにわけながら、類似したイメージの連鎖を交替的にモンタージュするという形でつなげていった。たとえば後半のあるパートでは、壁塗りと化粧、洗髪と洗濯、カメラを回す手とミシンを回す手などを並置・交替させながら展開していくのである。

 エイゼンシュテインやジガ・ヴェルトフが創作のインスピレーション源としたモンタージュ理論は、ロシア構成主義やキュビスムの美術が重視した「コラージュ」(フランス語で「貼りつける」の意)の概念からも大きな影響をうけていた。20世紀美術の源流とされるキュビスムは、外面の写実的描写から脱して、対象を複数の視点から分解的に示すことで多元的・分裂的な現実の再構成を試みたものだった。また、パピエ・コレと呼ばれる手法で壁紙や新聞など現実界の事物を絵画に直接貼りつけたりした。

 そこから派生した、写真によるコラージュは「フォトコラージュ」または「フォトモンタージュ」と呼ばれるが、互いに異質な写真の断片が現実の統合感を崩し、記号としてぶつかりあうことで新たな意味や感情を生みだした。こうしたコラージュ写真家には、創始者というべきジョン・ハートフィールドとゲオルゲ・グロッスをはじめ女性アーティストのハンナ・ヘーヒや、ロシアのエル・リシツキーやアレクサンドル・ロトチェンコらがいるが、現代ではイギリスの美術家デイヴィッド・ホックニーの「ジョイナー写真」と呼ばれるキュビスム的なフォトコラージュや日本の木村恒久によるリアルで批判的な合成イメージ「キムラカメラ」が有名である。

 当時、コラージュやモンタージュは「断片の集積」の手法、つまり現実や事物をいったん断片に解体しその再構成から新たな意味を生みだす手法として、絵画・写真・映画にとどまらず、前衛的な演劇や文学、さらには建築にまで影響を与えるにいたっていた。

 もともと映画の編集はコラージュ(=フィルムの接合)によって成り立っているが、1920年代フランスの前衛映画ではキュビスムのコラージュの考え方を応用して、画家フェルナン・レジェの《バレエ・メカニック》(24年、ダッドリー・マーフィーと共作)やルネ・クレールの《幕間》(24年、画家フランシス・ピカビアの原案)など、時間や空間の連続性・一体性を無視して現実を分解し解体するような作品が現われていた。

 《バレエ・メカニック》の場合、冒頭とラストのキュビスム的なチャップリン(フランスではシャルロCharlotの愛称)の人形が脱臼したような解体された動きで作品全体を象徴しているが、時間にそって映像は展開するものの劇映画のような物語的展開はなく、むしろ個々のショットが機械パーツのような「断片性」で強調され、事物や形態のショットが音楽的に反復・変奏されていく(アメリカ人作曲家ジョージ・アンタイルによるオリジナル音楽もあった)。本来は空間的に(今日ならインスタレーション作品として)並べてもよいものをフィルム上で時間順にリズミックに見せている、といった「並置」の感覚がそこにはあった。

「バレエ・メカニック」冒頭のチャップリンの人形(下の2点も同作より)

 

 

[コラム] ファウンド・フッテージ(見出されたフィルム)

 エイゼンシュテインなどのモンタージュ映画が物語の時間を劇的・動的に再構成したのに対し、こうしたコラージュ映画のショットの並列・羅列はふつう非物語的(ノン・ナラティヴ)で、物語が構成されないことが多い。この種の映像コラージュは、今日のミュージックビデオやコマーシャル映像で一般的だが、その原点ともいえるのがアメリカの美術家・実験映画作家ブルース・コナー(1933-2008)の始めた「ファウンド・フッテージ」の手法である。

 ファウンド・フッテージ(found footage/見出されたフィルム)とは、シュルレアリストの「発見されたオブジェ」(仏語objet trouvé、もとは「掘り出し物」とか「遺失物」の意)の英訳「ファウンド・オブジェクト(found object)」が映画に転用されたもので、現代美術の「オブジェ」のように発見され、コラージュ感覚で構成された映像というニュアンスがある。フッテージとはフィルムの断片とかフィート数をさす言葉である。

 ブルース・コナーはアッサンブラージュの美術家として著名で、アッサンブラージュとは廃物など非芸術的な物体や素材を寄せ集め、接合・組み合わせて立体作品を作る手法で、いわば3次元のコラージュと言える。彼は自分の美術作品と組み合わせて展示するために、廃棄処分にされるような古いフィルムを集めてコラージュするという手法を考え出した(この手法の先駆的な例としては、やはり箱の作品やコラージュで有名なアメリカのシュルレアリスト美術家ジョゼフ・コーネルの《ローズ・ホバート》[36-39年]等がある)。

 ブルース・コナーの最初の作品《A MOVIE》(58年)では、ニュースやルポルタージュから、古い劇映画やポルノ映画まで、それにフィルムリーダーなどの「断片」を寄せ集め、既存のフィルムだけで自分の映画を作り出した。まるで出所の違うさまざまなフィルム断片をつないでいるにもかかわらず、あまり不自然さを感じさせないのは、疾走とか災害・戦争といったテーマごとに類似した映像を並置している(落下・炎上する飛行船のように何度もくり返されるイメージもある)のと、重々しいレスピーギの音楽「ローマの松」をショットの切れ目に関係なく流しているせいだろう。

 ファウンド・フッテージとよばれるこの手法は、1980年代後半から、記憶や歴史を表現する方法として欧米で広く使われるようになり、マティアス・ミュラー(ドイツ)、ペーター・チェルカススキー(オーストリア)、セシル・フォンテーヌ(フランス)、デイヴィッド・リマー(カナダ)、フォルガーチ・ペーテル(ハンガリー)らが代表的作家である。日本では、かわなかのぶひろの《プレイバック》(73年、リュミエール兄弟の《列車の到着》を解体・再構築)や《スイッチバック》(76年、古いニュースフィルムの断片を使用)がファウンド・フッテージの先駆的な例といえる。

 ブルース・コナーはその後もこの手法を洗練していき、2部作《5時10分発ドリームランド行》(76年、この題名は「夢の国まで5分10秒」と取ることもできる)と《悲しいワルツ》(77年)では、古い教育映画の断片などを多用しながらセピアトーンに統一された夢のようなニュアンスを生み出し、さらに1950年代アメリカへのノスタルジー感覚もそこにしのびこませた。

"Valse Triste" by Bruce Conner

 彼がファウンド・フッテージの手法でロック・グループDEVO(ディーヴォ)の《モンゴロイド》(78年)やブライアン・イーノとデイヴィッド・バーンの《アメリカは待っている》(81年)といった音楽のプロモーション・フィルム(実験映画としても上映される)を制作したこともあって、この手法はその後のミュージックビデオにも大きな影響を与えることになり、この分野ではいまでもしばしば古い白黒映像のコラージュをみかけることが少なくない。

 

 

ⓒ西嶋憲生 2024