切り取りと配列  世界を切り取る

 

1. フレームとは何か

 

フレーム=世界の枠取り

 

 すこし気をつけるとすぐわかるように、映画のスクリーンには、いくつかのサイズがある。現代映画の大半はビスタサイズ(縦横比1:1.85, ヨーロッパでは1:1.66)だが、テレビの画面は1950年頃までの映画と同じ3:4のスタンダードサイズ(1:1.33または1:1.37) だったので、放映される映画の両端がしばしばトリミングされていた(現在のテレビ[原文ハイビジョンやワイドテレビ]は9:16=1:1.77)。1:2.35のシネマスコープサイズ(シネスコ)の場合など左右を切ってスタンダードにしてしまうと何と画面の43%が削られてしまっていた。これではオリジナルの構図や演出がまったく損なわれることはいうまでもない。映画をビデオやテレビで見る場合、つねにスクリーンサイズを確認する必要があるのはこのためである。

 映画・映像で「フレーム」とか「フレーミング」といえば、ふつうカメラのファインダーが規定する「枠」(より正確にはアパーチュアと呼ばれるカメラ内の窓)を通して現実世界を切り取る行為を指している。写真と同様に映画やビデオでも、フレームによって世界の一部を枠取って切り取り、その細分化された世界の断片を引用し、集積し、そこにコンテクスト(文脈)をつくりだすことで、作品が現実とは別の「意味ある全体」を再構成していくのである。

 フレームによって空間を限定し、何かを際立たせるために特定の部分だけを見せる。それは観客の視線をある一点に集中させることでもある。こうした枠取り(フレーミング)は絵画では、キャンヴァスの形態とそれを取り囲む額縁(フレーム)でなされ、それはまた「構図」(コンポジション)をも意味している。

 

構図とその意味

 

 よく知られるように、絵画では長方形のキャンヴァスを横長に使えば風景画、縦長に使えば人物画という暗黙の約束事がある(逆に使用する例ももちろんある)。構図とは、マティスが「画家が自分の感情を表現するために用いるさまざまな要素を装飾的に配置する方法のことである」と的確に定義したとおり、フレームの中ですべての細部や色や形や光をバランスよく調和させる本質的要因である。

 映画においてもフレームはその視覚面の決定要因である。《ざくろの色》(71年)や《アシク・ケリブ》(88年)などセルゲイ・パラジャーノフ(1924-90)の映画では人物や風景を正面から左右対称に撮った画面が多い。小津安二郎映画の人物はしばしば体は横向きのまま顔だけ正面を向いて話す。オーソン・ウェルズの《市民ケーン》(41年)や《偉大なるアンバーソン家の人々》(42年)では奥行きが異常に強調されている、等々。

 絵画ではキリスト教絵画の聖母子像(たとえばラファエロ)のように三角形の構図で描けば静的な印象で、ルーベンスのようにダイナミックな曲線的構図をつかえば動的な印象を生むが、映画でも、人物をどのサイズで切るか、風景をどういう構図で切りとるか、左右対称か非対称か、などで印象やニュアンスはがらっと変わる。

 ルネサンス絵画では、しばしば数学や幾何学にもとづいて宗教画が描かれ(ピエロ・デラ・フランチェスカなど)、それが絵の精神的意味を強めていたし、19世紀に写真が出現するとそれまでにない構図が出現した。エドガール・ドガは画家たちが写真を軽蔑していた時期から写真愛好家だったが、スナップ写真の偶然的フレーミング(奇妙なアングル、変わったポーズ、フレームからはみだしかけた人物など)を取り入れることで、構図に生々しい現実感を持ち込んだことで有名である。

 映画のごく初期にはカメラが固定したままだったので、動く被写体をどういう構図で撮影するかはきわめて重要な問題であった。リュミエール兄弟の《列車の到着》では、絵画で奥行きや運動感を生み出来事を劇的にするとされた対角線の構図が採用されているが、その最初(駅のホームと線路)と途中(入ってくる蒸気機関車)と最後(カメラに近づく乗降客)で構図は大きく変化している。

 

映像のサイズで観客の印象は変わる

 

 こうした構図とフレームの関係は、映画の世界では「画面サイズ」とか「ショット・サイズ」とよばれる画面内での被写体の大きさの決定やその組み合わせの問題とつながる。フレームが切りとる対象の世界は本来、連続したものだから、それを切りとるサイズもズームのように本来は無限に多様な可能性があるはずなのだが、映画の現場ではかなり早い時期からこの映像のサイズを何段階かに便宜的に分けてきたのである。

 被写体が画面内で占める大きさの序列として、超クロースアップ/クロースアップ/バスト・ショット/ミディアム・ショット/フル・ショット/ロング・ショット/超ロング・ショットなどと分けるのが一般的だが、同じ顔のアップでも頭の上をフレームぎりぎりとするか、かなりあけるかなど、同サイズでも人により違いがあり、ロングと超ロングの境なども曖昧であくまで便宜的区分けにすぎない。ただ、あるショットをどのサイズで撮るかによって観客の印象や感情移入は大きく変わる。またライティングやレンズ(標準か広角か望遠か)次第で、同サイズでも距離感や背景が変わり印象はさらに変化する。

 また、1910年代のアメリカ映画(とくにトマス・H・インスの映画)ではひざから上の全身ショットがよく使われ、フランスでそれが「アメリカ・ショット(plan américain) 」とよばれたり、ジョン・フォードの映画にロング・ショットが多く、戦後イタリアのネオレアリズモ映画(ロベルト・ロッセリーニなど)ではミディアム・ショットがきわだって多いなど、時代や作家によりショット・サイズにかなり偏りがみられるのも興味深い事実である。

 他の監督よりクロースアップの比率が高いことで知られるアルフレッド・ヒッチコックが、「映像のサイズの選択はつねにドラマティックな効果とエモーションに対応していなければならない」「映像のサイズはエモーションを生みだしたり高めたりするために非常に重要な要素だ」(山田宏一・蓮實重彦訳『ヒッチコック/トリュフォー 映画術』晶文社)と言い切るのは、絵画と同様に映画でもフレーミングが決定要因となるからだ。

 

 

2. 絵画的フレームと映画的フレーム

 

絵画の額縁は求心的、映画のスクリーンは遠心的

 

 フレームに関して、絵画と映画(動く映像)が決定的に異なる点は、フレーム内で世界が完結するか、フレームの外(画面外)がたえず意識されているかという点である。

 鋭い洞察にみちた『映画とは何か』(小海永二訳、美術出版社、全4巻/ 野崎歓・大原宣久・谷本道昭訳、岩波文庫、上下巻、2015)で知られるフランスの映画批評家アンドレ・バザンは、「絵画と映画」という文章でこう指摘する。

 「絵画の額縁は空間の方向感覚を失わせる区域を形成する。自然や人間の行動経験の外にある境界と違い、この内側へ向う空間、じっと見つめるべき空間は絵の内部に向けてだけ開かれている。スクリーンという枠は単なる映像の額縁なのではなく、マスクという技術用語がたまに気づかせてくれる通り、現実の一部だけマスクをはずして見せているものなのだ。額縁は空間を内へと集中させるが、スクリーンは反対に、宇宙へ無限に延び広がっていくかのように観客にものを見せる。額縁は求心的、スクリーンは遠心的なのである。」(『映画とは何か』邦訳第4巻[岩波文庫版上巻]、引用部は拙訳)

 したがって、映画をあまりにも絵画的な構図で埋めつくすと、観客には画面の外にひろがる宇宙が感じられず、密室的で息詰まる空間に思えてくる。ピーター・グリーナウェイをはじめ美術出身の映画作家の作品には、しばしばこうした絵画的・求心的な構図がみられる(一方で、ライティングについては多くの撮影監督がレンブラントやフェルメールの絵の光を参照している)。

 映画の空間はスクリーン内で完結しない。人物がスクリーンから消えれば、それはスクリーンの外に連続する空間へ移動したことを意味する。夕暮れのセーヌ河を延々とカメラが進んでいくマルグリット・デュラスの《オーレリア・スタイネル(メルボルン)》(79年, 35分)のように、カメラが動き続ければそれだけ空間はひろがっていくのだ。

 

フレームは提示すると同時に隠す

 

 アメリカの写真家デュエイン・マイケルズの9枚組写真《物事は奇妙だ(Things are Queer)》(73年)では、最初の1枚に何の変哲もない浴室(便器とバスタブ)が写っている。2枚目はそこにばかでかい男の足。3枚目はミニチュアの浴室でガリバーのように身をかがめる男の全身。やがてその写真が本の1ページとなり、それを読む闇の中の人物が写真となって、まさに額縁に収まり、最初の浴室の壁の写真へと戻る。

 ここではフレームは単にものを提示するのでなく、むしろ意外なトリックを「隠す」ために使われている。フレームは枠によって何かを強調して見せると同時に、その外を隠す働きもある。またどんな大きさも同じサイズに収めてしまうため、部分のアップではスケール(寸法)の基準がわからない。デュエイン・マイケルズはそうしたフレームのトリックや錯覚を巧妙に利用しているのである。

 

 スイスの現代美術家でありビデオ作家であるぺーター・フィシュリ&ダヴィド・ヴァイス(フィシュリ&ヴァイス)の《事の次第(Der Lauf Der Dinge/ The Way Things Go)》(87年)では、連鎖反応を続けるオブジェや液体や火を、ゆっくりと横移動しつづけるカメラがアップですこしずつ画面に見せていく(《山の焚火》《キャンディ・マウンテン》等のスイスの撮影監督ピオ・コラーディが撮影)。全体の状況は一度も出てこないが、それが逆に観客の期待や想像を刺激する。イギリスの映像作家・美術家トニー・ヒルの《ダウンサイド・アップ》(84年)では、フレーム内の風景(室内や野外)が回転し俯瞰になったり逆転したりするが、その不思議な映像を生みだす仕掛けはフレーム外に隠されたままだ。こうした作品での期待感やユーモアは、何よりフレームの見事な戦略から生み出されるのである。

 

 映画においては、画面には映っていないが音や視線でその存在が暗示される「画面外」(オフシーン)の表現は、観客の想像力に働きかける重要な手段となる。西部劇の巨匠ジョン・フォードの代表作《駅馬車》(39年)では、クライマックスの襲撃場面で騎兵隊の到着は馬車内の若い母親の顔のアップ(表情の変化とラッパの音)だけで描かれる。ここでも画面外の状況を見せないことでかえって想像を刺激していた。

 厳格かつ簡潔な構図で知られるフランスの芸術派監督ロベール・ブレッソンの《スリ》(59年)では、冒頭の競馬場の場面で、走る馬は一度も出てこない。競馬を見る人々とスリを働く主人公を映す画面にレースの音(アナウンス、歓声、馬の通過音など)が聞こえるだけなのである。「トーキー映画は沈黙を発明した」「物音が音楽と化さねばならぬ」と主張したブレッソンは構図だけでなく、つねに画面外の音の使い方に細心の注意を払った。同時に、厳密なアップの構図(たとえば手のアップ)とフレーム外の見えない顔や人物の心理とのあいだの緊張もブレッソン映画の特徴といっていい。

 最後に、フレームのまったく独自な使い方として挙げたいのが出光真子のビデオ作品である。たとえば《清子の場合》(89年)では、画面のなかにしばしば女性主人公の抑圧された心の情景を視覚化(ヴィジュアライズ)するものとして大きなテレビモニターが登場する。そこでは画面内にある画面、フレーム内にあるもうひとつのフレームが、現実の二重性(外的な目に見える現実/内界の心の世界の現実)を同時に表現し、観客にフェミニズム的な抑圧の問題を意識化させる手段となっている。

 

 

3. 撮影という行為──まなざしと時間

 

撮影が映画を成り立たせる

 

 「カメラアイ」という言葉がある。カメラのように正確で客観的な観察や報道という意味でつかわれることが多い。しかし撮影とは、対象の客観的記録であると同時に、その対象を撮影者がどう見ていたかという撮る側の主観的な眼(アイ)の記録でもある。

 絵画や写真にもそうした主観的まなざしは現われるが、映画やビデオの撮影では時間が伴うため、より鮮明により強く現われることがある。きわめて短い瞬間的な視線から長時間回し続けた場合の鋭く凝視するような視線まで、シャッターを押す時間の長短で撮影者のまなざしのニュアンスも大きく変化する。こうして撮影に着目し、撮影を通して自分の「視線」を発見することは映像表現の基本ともなるのである。

 ところが今日の劇映画では、撮影はあくまで脚本を視覚化する一段階、映画を成り立たせる数多くの部門(衣裳・美術・照明・音響・編集など)の一要素とみなされ、その全体を統括するのは監督とされている。

 しかし当然ながら、撮影された映像がなければ映画は成立しない。もともと映画が誕生した時点では、風景や事物や出来事を撮影するカメラマン以外にスタッフはいなかった。演出家や照明・美術・衣裳・大道具・小道具といった演劇の世界の職種は、劇映画の製作システムが確立していく過程で、後から映画の世界に加わってきたのである。

 

一回的な撮影行為をそのまま作品化する

 

 フレームを選び撮影するという基本行為は、写真の場合、作者(写真家)自身が撮影するのでそのまま作品と直結する。映画の場合も、撮影は単に映像制作の一段階(たとえばドラマのための撮影)を越えて、重要で決定的な要因となりうる。

 たとえばジョナス・メカスの日記映画では、そのときその場にいた「作者=撮影者」の一回的な撮影行為がそのまま作品化されていると言っていい。作者=撮影者の主観的なまなざし(その動きや長さ、ピントや歪み)が作品の形式や内容と「身体的」といっていいほどに直結しているのである。ちょうど、クラシック音楽では作曲(楽譜)に対して演奏が従属し解釈する関係にあるが、ジャズの即興演奏では作曲と演奏が同時に同レヴェルで行なわれるように、撮影行為も作品によっては一種の即興演奏のような位置を占めることがあるのだ。

 ジョナス・メカスの《リトアニアへの旅の追憶》に影響を受けてつくられた鈴木志郎康の《日没の印象》(75年)では、古い16ミリカメラを買った作者がそのカメラを使って自分の身辺を撮影していく。そこではつねにそのカメラで撮影されていることが観客に意識され、ラッシュフィルムを見るみずみずしさで観客が作者の視線を追体験するような生々しさがあった。この映画は日常を一見単純に撮り、その撮るプロセスを見せるだけでも表現行為が成立することを示す画期的な作品となったといえる。

(「日没の印象」で古い16mmカメラを鏡に向かって回す作者)

 日常の即興的撮影というそのアプローチは、写真界に1960年代半ばから登場した、いわゆる「コンポラ写真」と共通する心理であり思想でもあった。コンポラとはコンテンポラリー(同時代)の略で、具体的にはリー・フリードランダー、ゲリー・ウィノグランド、ダニー・ライアンらアメリカの若手写真家たちが日常的光景をストレートに撮影して「コンテンポラリー・フォトグラファーズ」(展覧会名)として紹介されたことに起因する。日本ではそれと共通する日記的・私写真的な写真家(牛腸茂雄、荒木経惟ら)を含めて「コンポラ写真」と呼ばれるようになったのだった。それまでの重厚で作為的だった芸術的・造形的写真とは正反対に、一見素朴な構図で日常を撮りながら「私と他者」の関係や「撮る」という行為を問おうとした写真である。

 こうした撮影行為や日常性を重視する系譜の先に、1990年代に大木裕之がゲイ・セクシュアリティの視線で場(風景)や友人を撮影し、その日記的なイメージの連鎖だけで作品を成立させようとした試みを位置づけることもできるだろう(『遊泳禁止』90年、『ターチトリップ』93年など)。

 逆に、カメラアイが機械であるため人間の視線を超越してしまう例として、日没直前から深夜までエンパイアステートビルを固定カメラで撮影したアンディ・ウォーホルの《エンパイア》(64年、毎秒24コマ撮影を16コマで映写し8時間)がある。そこにはもはや個人のまなざしはない。そもそも人間の眼なら同じものを8時間も見続けることはできないだろう。ただただ回り続けるカメラという機械それ自体の視線と、とてつもなく長く緩慢な時間、思わぬ変化の瞬間とがそこに現われてくるのだった。

 

 

[コラム] 撮影監督の仕事

 アメリカ撮影監督協会(A.S.C.=American Society of Cinematographers)の監修で作られた主要な映画カメラマン(撮影監督)のドキュメンタリー&インタビュー集《ヴィジョンズ・オブ・ライト》(92年, アーノルド・グラスマン、トッド・マッカーシー、スチュアート・サミュエルズ/ NHK+アメリカ映画協会製作)を見ると、D.P.(Director of Photography)と呼ばれる撮影監督たちが、映画のヴィジュアル面の決定権をいかに持ち、それぞれ独自のスタイルや個性を持っているかがよくわかる。同じ脚本であっても、カメラマン(撮影監督)によってヴィジュアル面(「ルック」とか「画調」といわれる)は驚くほど変わってしまう。ハイキー(全体に明るい画調)かローキー(全体に暗い画調)か、自然光か人工照明かなどで、画面のニュアンスは一変する。

 ロバート・アルトマンやブライアン・デ・パルマの撮影で有名なヴィルモス・シグモンドは「脚本は大切だが、映像に語らせなくてはだめだ」と撮影の重要性を述べ、ベルナルド・ベルトルッチやフランシス・コッポラの映画で独創的な撮影を手がけたヴィットリオ・ストラーロは「光と色でストーリーを表現する」という哲学を貫いている。

(日本語版はダゲレオ出版より1994年にVHS発売。写真は『紅塵』32のセット風景。主演のジーン・ハーロウ[右]と監督ヴィクター・フレミング[スツール]、その後ろカメラ脇に撮影監督ハロルド・ロッスン、後方にはクラーク・ゲーブルとメアリー・アスター。)

 

 《ヴィジョンズ・オブ・ライト》が明らかにする通り、映画作品は撮影監督の設計やアイデアと密接につながっている。ストーリーを絵に置き換えるだけでなく、そこに隠されたモチーフやテーマをいかにフレームのなかでヴィジュアライズするかという仕事が劇映画での撮影の役割である。ローアングルで知られる小津安二郎映画の厚田雄春、移動撮影がきわだつアラン・レネやピーター・グリーナウェイ映画のサッシャ・ヴィエルニー、ハンドカメラを多用するウォン・カーウァイ映画のクリストファー・ドイルといったカメラマン(撮影監督)と映画の形式・スタイルは一体なのである。

 撮影監督の仕事については、デニス・シェファー、ラリー・サルヴァート共著のインタビュー集『マスターズ・オブ・ライト/ アメリカン・シネマの撮影監督たち』(高間賢治・宮本高晴訳, フィルムアート社[完全版,2023])も一読をすすめたい。

 

 

ⓒ西嶋憲生 2024