イメージの世界

 

1. イメージの起源:影像と人間

 

「イメージ」という言葉の語源

 

 「映像」と「イメージ」という言葉は漠然とほぼ同じ意味で使われているが、それぞれの言葉の定義をあらためて調べてみるとかなり意味の幅が異なり、英語の「イメージ」には日本語にない意味も多く含まれるのがわかる。

 「映像=①光線の屈折や反射によって映し出されたもの。像。②テレビで映し出されたものの形。③頭の中で描き出されるもののすがたやありさま。イメージ。」(小学館『日本国語大辞典』による)

 「image =①(人・動物・物の)像、肖像;画像、彫像、人形、塑像 ②(鏡の反射・レンズの屈折などによる)像、映像 ③(心に浮かんだ)映像、心像、表象、イメージ;概念、観念 ④[心理]心像 ⑤形、姿、外形 ⑥よく似た人(もの)、生き写し ⑦象徴 ⑧典型;具現、化身 ⑨(言葉・文章による)描写、表現 ⑩神像、偶像 ⑪[修辞]修辞的比喩;(特に)隠喩、直喩 ⑫[数学]像、写像 ⑬[古]幻、幻影」(小学館『ランダムハウス英和大辞典』による)

 どちらも骨格をなす語義は、「光学的・視覚的現象」と「心的現象」、つまり人間の外界と内界の両方に関わっている点が共通している。映像という漢字自体、「映」は日(太陽)と丘の中央に立つ人、「像」は人と象(見たことのない象[マンモスか?]というものを思い浮かべるの意)を表わすが、特に「像」の字はもともとは「想像」の意味にしか使われなかったという(黄河で絶滅した象を骨から「想象」した)。光学的な像と心像とが合成されて映像という語ができているわけである。

 さらにイメージの語源となるラテン語「イマーゴ」(imago) には、「①(人の)肖像、似姿、彫像、絵画 ②幻影、亡霊、妖怪 ③(ローマ時代の葬儀で死んだ祖先の)仮面 ④反響、こだま ⑤(心の中に形成される)イメージ;概念、思考、想像、観念」などの意味があったという(『オックスフォード ラテン語辞典』による)。死者とつながる意味が多い点がとくに注目される。

 これらの語義に共通しているのは「視覚」と「心」にかかわる点であり、またイメージというものの「非物質性」(モノのようなたしかな実在性をもたない性質)であろう。イメージは外界に物質的に存在するモノとはちがった存在のしかたをしている。見ることはできてもモノのように触れたり動かしたりはできないヴァーチュアルなもので、たとえそこに物質的な支え(絵画のタブロー、映画のフィルムやスクリーン、写真の印画紙など)があったとしても、「イメージそのもの」は物質とはいえない。イメージは人間が視覚と心を通して体験する非物質的なものだからである。ときに「影像」とも書かれるように、三次元空間の実体に対してその影(二次元平面への投影像)にあたる存在ともいえるだろう。映画もまた、平面のスクリーン上に投影されたひとつの影とみることができる。

 

影の神話学

 

 たしかに「実体」と「影」の関係こそ、イメージというもののありかたを考えさせてくれるもっとも基本的で身近な例かもしれない。

 寺山修司の《二頭女──影の映画》(77年)は、影をめぐる想像力をモチーフにした短編映画だが、ここでも影はしばしば実体を離れて動きだす。影だけが壁の痕跡として残っていたりそれが消し去られたりもする。1960年代から長く影に引きつけられ影を描きつづけた美術家・高松次郎の作品の数々も思い出させる。そして寺山修司らしく《二頭女──影の映画》では実体と影の関係が、ときに存在と不在、現在と過去、物質と記憶、外界と内界、のメタファー(隠喩)へと転換され、意味を多層化していくのである。

「二頭女」ラストで影のドラマと解体されるセットを見つめる寺山修司(シルエットの後ろ姿)

 

 もうひとつ、傑出した影の映像作品として、京都出身のパフォーマンス集団ダムタイプの中心メンバーであった古橋悌二による映像インスタレーション《LOVERS》(94年)もある。暗い室内の中央に置かれた複数の回転式プロジェクターから裸の人体や文字が四方の壁に投影され、動き回り、出会い、すれちがう(のちに改定されたヴァージョンでは、観客の位置をセンサーでキャッチして観客の前に立ち止まったりもする)。不思議な影の領域でこの静かで詩的なインスタレーションは、映像というものがまさに物質的な実在性を欠いた亡霊のような存在であることを、あらためて感じさせ、発見させてくれたのだった。

 ところで、つねに我々の後を追いかけてくる存在、現われたり消えたり大きくなったり小さくなったりする不確かな存在である影というものに、人間はみずからの内的な世界観や信仰を重ね合わせて見てきたようである。影は、単なる日常的な現象にとどまらず、人間に特別な心理的・哲学的な影響も与えつづけるイメージでもあったのだ。太古から神話に登場する「分身」(もうひとりの私)の元型は影であるとされるし、フランス語で影を意味する"ombre" (オンブル)には亡霊や死者という意味も含まれる。西欧文化で死者は影をもたないとされるのは、死者自身が影だからであり、この考え方の背景には死後に影が幽霊や精霊になるという神話的な考えも伺える。

 地球上のさまざまな文化や習俗(タブー、儀礼、宗教など)を探究したイギリスの社会人類学者・民俗学者サー・ジェームズ・フレイザーによる古典的名著『金枝篇』(初版1890年)には、「影と映像としての霊魂」という章がある(岩波文庫版では第2巻第18章の3)。未開社会の多くでは、影を自分の霊魂または自分の生命的部分と考え、自分の身体に危険が及ぼされるのと同じように感じとったり、本人から影が切り離されると死んでしまうと考えていたという(未開人が写真に撮影されることを忌み嫌うのも同じ世界観のあらわれといえる)。日本語の表現で生気に乏しいことを「影が薄い」というのと同じ感覚で、影は生命力、病気、死などと結びつけて考えられてきたのである。

 「私」という存在が「近代的自我」として確立された時代以降、影はつねに「私」をおびやかす「もう一人の私」(他者としての私)として不安を誘ってきた。1814年に書かれたシャミッソーの有名な寓話的小説『影をなくした男』(池内紀訳、岩波文庫)で、金のために自分の影を売り渡してしまった主人公の青年ペーター・シュレミールが「正確には影を失くしたのではなく、あらためて影を発見したのである」(種村季弘『影法師の誘惑』)といわれるのはそのためである。

 

[コラム] 映画のなかの影の美学

 「光と影の芸術」ともいわれる映画(とりわけ白黒映画)の世界では、ときに影が強調され、不安や恐怖や神秘の表象として使われることがよくあった。とくに、1920年代のドイツ表現主義映画や1940年代アメリカの「フィルム・ノワール」では、それが極端なまでに強調されている。

 ドイツ表現主義映画というと、《カリガリ博士》(ロベルト・ヴィーネ、19年)のような極端に歪んだセットや明暗を強調した照明・美術がまず特徴としてあげられるが、実際には、表現主義映画には自然主義的なロケ撮影もあれば超絶的な撮影技巧もあり、歴史劇や神話からSFまで主題も多様だった。ただそこには共通して、重い宿命とか暗い神秘を好むようなドイツ的な精神性が感じられ、それが不気味な影として画面にあらわれたともいえる。影絵師が影絵の幻影で人々を操る《戦(おのの)く影》(アルトゥール・ロビソン, 23年)という作品もあった。

 ドイツ表現主義映画の代表作の多くは「怪奇幻想映画」で、フリッツ・ラングの《死滅の谷》(21年)《ドクトル・マブゼ》(22年)《ニーベルンゲン》(23-24年)《メトロポリス》(26年)、フリードリッヒ・W・ムルナウの《吸血鬼ノスフェラトゥ』(22年)《ファウスト》(26年)をはじめ、パウル・ヴェゲナー《巨人ゴーレム》(20年)、パウル・レニ《裏町の怪老窟》(24年)など狂人・怪人・怪物がよく登場した。鏡像が勝手に動き出す《プラーグの大学生》(13年/26年)やシャミッソーの《影を失へる男》(15年/22年)など何度も映画化された「分身もの」も重要な主題であった。

上下ともF・W・ムルナウ「ファウスト」撮影カール・ホフマン

 

 その後、ドイツの監督たちやカメラマンがナチス時代にアメリカに渡ったことで、1930年代アメリカのホラー映画(《魔人ドラキュラ》《ミイラ再生》等々)をへて、1940-50年代のいわゆる「フィルム・ノワール」の作品群に、ドイツ表現主義の影の美学(シルエット、コントラスト、闇など)が強い影響を及ぼしたとされる。「フィルム・ノワール」とは、ハンフリー・ボガートが私立探偵サム・スペードを演じた《マルタの鷹》(ダシール・ハメット原作, ジョン・ヒューストン, 41年)や同じくフィリップ・マーロウを演じた《三つ数えろ》(レイモンド・チャンドラー原作, ハワード・ホークス, 46年)に代表されるような、私立探偵やギャングが登場し都会の暗黒面(アンダーワールド)がからむハードボイルドな犯罪映画のことだが、暗くシニカルなムードと夜の場面が多いことから、暗さ(黒)を意味するフランス語「ノワール」が使われるようになった。

ジョン・クロムウェル「大いなる別れ(Dead Reckoning)」47のH・ボガート、撮影レオ・トヴァー

 1940年代のヒッチコック映画(《レベッカ》《断崖》《白い恐怖》等々)も、少し注意して見るなら、画面のいたるところにじつに多様な影の表現が折り込まれていることを発見できるだろう(それを実現したカラー映画時代とは異なる当時の高度な撮影・照明技術も)。

ヒッチコック「断崖」の1シーン、壁にかかる影、白く光るミルク、シルエットの人物(ケーリー・グラント)。撮影ハリー・ストラドリング

 

 このように、神話や宗教から20世紀の映画にいたるまで、さまざまな形で影のイメージは人間の文化史の深い部分とつながりあってきた。

 おそらくそうした事実を背景に、ユング心理学では「元型」とよぶ人間の根源的表象のひとつとして影を捉えている。「本人は認めようとしないが、それでもつねに直接または間接に本人の上に押しつけられてくるすべてのこと──たとえば、性格の劣等な傾向やその他の両立しがたい傾向──を人格化したもの」と影を定義して、夢分析において本人と同性の分身(その人が排除・抑圧し生きてこなかった半面、もうひとりの自分)を表わすものとして重視してきた。

 人間の心理と影とのこうしたかかわりに興味をもつ方は、ユング心理学者・河合隼雄の『影の現象学』(講談社学術文庫)を一読することをぜひすすめたい。自我(意識)と無意識の関係にイメージがいかに大きな役割を果たしているか知ることができるだろうし、文学や美術のなかでの影の表現も数多く引用され、表現者として触発される点も少なくないはずである。

 

 

2. 夢・無意識・イメージ

 

イメージと人間の心

 

 イメージに心(とくに無意識)の問題がからむのは、人がイメージをみずから生産するからであり、洞窟に絵を描いた太古の時代から人間はイメージを想像し外部に表現し、他者や次世代に伝達してきたからである。そうした視覚情報を絵や映像メディアを介して外部に表現するだけでなく、人は夢や記憶のような形で内的イメージ(心像)を作りつづけてもきた。「人間にとってイメージとはそもそも何であり、それはどこから始まるのか?」という問いは、あらゆる神話が語ろうとする世界の起源(創世神話)にも似て、人類の永遠の謎といえるかもしれない。

 一方で、人間にとってイメージは「外界」(外的現実、物質的世界)と「内界」(私の心の世界)の接点でその両者にかかわってきたことは間違いない。今日、映像メディアでイメージをあつかう場合にも、単に外界の現実を撮影するだけでなく、自分の内界のイメージにも深くかかわっていることを自覚すべきであろう。「現実の忠実な機械的記録」のための技術として発明された写真や映画が、人間の内的なものの外化としての「表現」になりうるのは、イメージが外界と内界の両方にかかわるからと言えるのだろう。

 人間がみずから内的に生産するイメージの典型はいうまでもなく夢である。それは無意識が自我のコントロールを越えて創造的に活動する場であり、夢を「見る」という言葉通り、理性や言語で「読む」のでなく、夢見る本人(私)だけがイメージで視覚的に体験するものである。一見非合理で無意味にみえるが、よく考えればわかるように現実の世界で起こっている事件も実際には唐突で非合理なものが少なくない。

 現代では夢を無意味なものと軽視する風潮もつよいが、かつては「夢占い」「夢のお告げ」「夢知らせ」のように昼の現実以上に夢を重視し、現実理解のヒントを得ようとした時代や文化も広く存在していた。日本でも、夢の記述が多いことで知られる平安時代の『更級日記』(1020-59年の約40年間を綴った回想録)ではしばしば夢は真実を告げるメッセージと解されているし、鎌倉時代の高僧・明恵(みょうえ)上人(1173-1232)が『夢記(ゆめのき)』に40年間にもわたって夢日記をつけていたといった例もある(明恵上人の夢の意味については、河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社、がくわしい)。

 

無意識の発見

 

 20世紀にも夢への関心は、REM(急速眼球運動)睡眠と夢の関連の発見(1953年)をはじめ、脳生理学・心理学・情報科学などの発達で研究が盛んにすすめられたが、その多くは睡眠や眠りの科学的・客観的研究であり、内的体験としての夢の解明や追求という点ではまだとうてい十分とはいえない。また、20世紀の科学的合理主義は夢の非合理性を軽視したが、その一方で20世紀人はどの時代にもまして熱心に夢を分析しようともした。現代人にとっての夢の意味を大きく変えたのは、「精神分析」あるいは「夢分析」とよばれる心理療法であり、フロイトによる「無意識」の発見だった。

 世紀の変わり目の1900年に『夢判断』を刊行し、精神分析の祖とされるジクムント・フロイト(1856-1939)は、一見ささいで無意味と思える心の働きが本人自身もわからない「無意識」の作用であると考えた。自我や意識にコントロールされない無意識に着目し、それを解読することで心のメカニズムを明らかにしようとし、ヒステリー患者などの治療に役立てようとこころみた。フロイトは夢を抑圧された願望の充足と考え、その内容を性衝動と結びつけて解釈したが(有名な「エディプス・コンプレックス」など)、夢は自我によって加工や検閲を加えられているとも考えた。一方、フロイトの影響をうけながら後に別れて独自のユング心理学を確立することになるカール・G・ユング(1875-1961)は、心の平衡をとりもどす働きを夢に認め、神話などにふくまれる象徴性(シンボリズム)と関連づけて人類共通の普遍的・根源的イメージを「元型」と名づけ追求した。ユングは夢のイメージを人間の創造性の源泉とも考えた。

 いずれの場合も、夢の分析こそが人の「無意識」(内的なイメージの世界といってもいい)を知る最良の糸口であり、セラピストがクライエント(相談者)の夢について聞くことが心理療法の基礎とされたのである。

 まちがいなく夢は人間にとってもっとも「私的」なイメージでもある。だからこそ、多くのアーティストは夢をみずからの発想源やイメージ源として活用してきたのである。フロイト理論の直接的な影響を受けたシュルレアリスム(詩人アンドレ・ブルトンによる『シュルレアリスム宣言』は1924年)の美術家や文学者はいうまでもないが(日本でも詩人・美術批評家の瀧口修造の夢日記がある)、映画監督のフェデリコ・フェリーニ(1960年ころから夢の絵日記をよくつけた)やデイヴィッド・リンチ(夢や目を瞑ったときのイメージを絵画に描く)、美術家のジョナサン・ボロフスキーや横尾忠則(ともに夢日記を出版)らも、夢から得たイメージを積極的に作品にとりいれてきた。表現者とりわけ映像の表現者が自分の内からイメージを探し出そうとするとき、こうした「夢」や「幼年期の記憶」にふくまれるきわめて私的なイメージやヴィジョンは、制作の重要な根拠ともなってくるのである。

フェリーニの夢日記。Federico Fellini, The Book of Dreams, Rizzoli, 2008

 

夢を映像化する

 

 夢には時間や前後の因果関係がなく、空間的にもずれてつながっているといわれる。こうした夢特有の性格から、同じイメージといっても、夢をそのまま映画やビデオの映像表現に置き換えるのは想像以上にむずかしく、原因があって結果が起こる「物語」の時間的な展開とどこかそぐわないようである。また、それぞれの夢には、恐怖・恍惚・哀しみ・驚き・困惑・焦りなど固有の感情がともない、目覚めて夢の内容を忘れていてもその感情のニュアンスだけは覚えていることがある。夢の映像化が、不可能を可能にするジョルジュ・メリエスのトリック映画として始まり、その後たえず特殊撮影やスローモーションと結びついてきたのはおそらくそうした不思議なニュアンスとも関連があるだろう。

 眼のアップをカミソリが切断するショットばかりがあまりに有名な《アンダルシアの犬》(ルイス・ブニュエル+サルバドール・ダリ、28年)は、シュルレアリスムの芸術運動のなかで「非合理な夢」を映画に移し替える意図で作られた。この映画でもスローモーションや逆転撮影は多用され、時間の入れ替わりや空間のずれもたえず起こる。ただ注意して見るならば、縞模様の箱(中には縞模様のネクタイ)が全体をつなぐ小道具として使われているなど、非合理ともいえない脈絡が隠されていることにも気づくはずだ。

 

 こうしたシュルレアリスム映画やジャン・コクトーの《詩人の血》(30年)などの夢の映画のあとで、1940年代アメリカで作られたマヤ・デレンの《午後の網目》(43年)は、夢のなかの夢のなかの夢へ、という入れ子的な構造を使い、自分の「影」(分身、もうひとりの私)を追いかける女性主人公(作者自演)が家の玄関を入り直すたびに自己分裂をくりかえしていき、最後は夢のなかで男をナイフで刺したと思いきや窓辺のソファーで眠っていた彼女自身が死んでいる、という奇妙な夢の展開をみせる。

 数多くの象徴的な小道具(白い花、ナイフ、鍵、鏡など)や意味ありげな空間(階段、玄関、ベッド、窓など)が登場するので、見る人によってさまざまに解釈できるだろう。ちょうど夢自体がそうであるように。夢分析では家は一般に夢を見ている人を表わし、その人の身体やさまざまな心のレベルを象徴するとされるし、ドアや窓をフロイト派精神分析は女性の性的シンボル、ユング派心理療法は外界を理解する能力と解釈する。もっとも精神科医を父にもつ作者自身はその種の解釈を拒んでいた。マヤ・デレンをフェミニズム映画作家のパイオニアとして再評価する立場からは、この映画は女が自分を探して心の奥深く入りこみ、男を待ちながら眠っている自分を殺すことで女(フェミニスト)として再生する物語なのだというフェミニズム的な読み直しもなされている。

 一方、ユング心理学者との出会いをきっかけに夢日記をつけ始めたフェリーニは、《8½》(63年)で自らの分身のような監督グイドの内的葛藤を、夢を中心に描き出した。冒頭の夢が無音(サイレント)で窒息感や空中浮遊を描くのも興味深い。

 ちなみに、ユングは夢の人物をすべて本人の分身(あるいは、抑圧され生きられなかった自我の半面という意味での「影」)と考えた。

 夢ではないが無意識の世界を描こうとした作品として、ミケランジェロ・アントニオーニの《赤い砂漠》(64年)があり、意識と無意識の間をさまよう女性主人公の「意識の流れ」がピンボケや抽象的な画面・色彩で表現されている。

 ビデオ・アーティストのビル・ヴィオラは、母親の死の9か月後に息子(第2子)が誕生したという内面的体験を傑作《パッシング》(91年, 54分)で描き出した("pas-sing" には、時の推移・消滅・死去といった意味がある)。作品全体が今日のビデオ作品としては異例のモノクロで、しかも作者自身が演じる眠りと目覚め(その間の夢)をくりかえしながら、夜の風景(砂漠、遺跡、水中)と人工呼吸で瀕死の母・生まれたばかりの赤ん坊・作者自身とを重ねあわせ織りあわせていく。ここではビル・ヴィオラの作品群を流れつづける「水」や「砂漠」の主題が、羊水のイメージ(ラストの水中の作者自身の姿も)やスローモーション映像としてくりかえし現われて、夢のニュアンスを強めている。

 ビル・ヴィオラは美術史家ヨルク・ツッター(当時ローザンヌ州立美術館館長)とのインタビューで「心のヴィジュアル考古学ともいうべきC・G・ユングの元型的イメージの理論は、芸術制作にとって大きな意味を含んだ、とても力強いモデルです」と述べている(『ビル・ヴィオラ: 見えないイメージ』展図録所収, 92年。"In Response to Questions from Jörg Zutter" in Bill Viola: Unseen Images, Düsseldorf, 1992)。

 夢は、メディアをこえて人間とイメージの関係について深く考えさせてくれる。

 

 

3. 記憶のイメージ

 

プルースト、記憶という鉱脈の採掘者

 

 ふと何かを思い出すということがある。誰もが体験するごく自然な現象のように思われがちだが、ある瞬間になぜそのことを突然思い出してしまうのか? これは不思議な心のはたらきというしかない。とくに、意識的にではなく、ふと思い出すという場合、人間の無意識のメカニズムと深くかかわっているようである。

 20世紀文学の代表作のひとつとされるマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』(1913-27年)は、まさにそうしたふと心に浮かびあがる記憶のかずかずを素材に、記憶そのものを小説全体の主題として書かれた長大な小説である。書き出しは、夜中にうとうとしたとき意識と無意識のはざまに浮んだイメージ(視覚的追憶)で、それが導く先は幼年期に休暇をすごした田舎の村コンブレーや祖母・叔母たち、訪ねてきた人々のことである。主人公の「私」が記憶の森に深々と入りこむきっかけとなるのは、フランス菓子マドレーヌのかけらを浸した紅茶の味だった。突然、原因不明の甘美な喜びとともに私の内に何かが呼び覚まされる。それは、子供の頃の日曜日の朝、叔母がすすめてくれたお茶やハーブティーの味にたどりつくのだ(第1巻第1部「コンブレー」1の末尾)。

 プルーストは無意識によみがえる「再記憶」の上に自分の全芸術理論を据えると明言していたという。プルースト研究家の保苅瑞穂はこう説明している。

 「再記憶というのは、一般の記憶が意識的に想像力を働かせることで得られる現象であるのにたいして、感覚と想像力が無意識に、しかも同時に働くことによって起こる現象である。過去、あるいは不在のものを想起するのは想像力である。現在を知覚するのは感覚である。ところで、この過去と現在に、二つの異なる体験があったとする。そしてその二つの体験に、視覚や聴覚や味覚にかかわる感覚上の共通の要素が含まれていたとする。(……)再記憶というのは、こうして或る感覚上の一致が仲立ちとなって、現在の想像のなかに鮮やかに甦った過去の記憶である。」(『プルースト・印象と隠喩』筑摩文庫)

 「流れ去る時間の支配を脱した超時間的な一瞬時」「束の間ではあっても永遠の」一瞬を求めるこの記憶小説は、大部にもかかわらず伝統的意味での筋の展開(起承転結)がつかみにくく、むしろそれを一時停滞させる描写に読みどころがあり、読者はそこに精神のドラマを読むのだ、と保苅瑞穂は指摘する。

 芸術家にとって記憶がもつ意味をプルーストは主人公の言葉としてこう書く。

 「私は自分の脳髄が豊かな鉱地で、そこには貴重な鉱脈が四方に果てしなく広がっていることを知っていた。しかしそれを採掘する時間が私にあるだろうか。私はそれができるただひとりの人間なのだ。それには二つの理由がある。もし私が死ねば、この鉱石を採掘できるただひとりの鉱夫が消えてしまうが、そればかりか、鉱脈そのものまでが消えてしまうからだ。」

 つまり、誰もが自分の記憶という鉱脈のたったひとりの鉱夫なのである。

 

幼年期の記憶から

 

 ところで、記憶は多くの場合、「視覚的イメージ」の記憶という形をとる。もちろん、記憶には音の記憶やにおいの記憶もあるのだが、何といっても「イメージ(像)」として脳裏に情景が浮かぶ視覚の記憶がもっとも多い。たとえば、自分の最初の記憶をさぐっていくと、出てくるのは幼稚園やそれ以前の、前後関係を欠いた断片的な情景のイメージであることが多いはずである(幼年期の記憶は一様に「視覚的」であるといわれる)。

 こうした幼いころの記憶の断片性、実際に起こった出来事と記憶のずれなどは「幼児健忘症」とよばれる現象(多くの人が生まれて数年間の記憶を忘れてしまい、覚えていても断片的であること。フロイトは「隠蔽記憶」という観点からこの現象に注目した)も含め、人間のイメージ体験を考える上でとくに興味深いものである。

 じっさいプルーストにかぎらず、芸術家はしばしばみずからの幼年期の記憶をモチーフとして、さまざまな作品を作り出してきた。『失われた時を求めて』と同じころに日本で書かれた中勘助の『銀の匙』(1912-13年)も、きわめて鮮明な幼年期の情景である。プルースト同様、虚弱な子供で伯母に溺愛された著者が、幼少年期の思い出を子供の感情世界そのまま描き出した名作としてつとに名高い(中勘助は夢日記もつけていたことがある)。文芸評論家の奥野健男は「こういう幼少年期の思い出、憧れ、夢が文学作品の通奏低音のように流れはじめると、文学作品は小説となるのだ」と書いたことがある。

 フランス人でアメリカ在住の女性美術家ルイーズ・ブルジョワ(1911-2010)は、少女時代に厳格で複雑な家庭で受けた心理的抑圧や暴君的な父親への反発から、終生その記憶を荒々しく破壊するような作品を作りつづけた。自伝的でもあるそれらの作品を通して、少女期の不安・怖れ・怒りなどから彼女はいまも身を守ろうとしているかにもみえる。

 ほかにも美術家・デザイナーで映像作家の田名網敬一は、映画《幼視景》シリーズ(78-80年)をはじめとして幼年記憶をモチーフに映像やシルクスクリーンや版画を多数制作し、その別の発展形として《記憶をたどる旅》という日記的な即興ドローイングのシリーズ(88-94?年)まである。

 映画監督ではアンドレイ・タルコフスキー(《鏡》75年)やフェリーニ(《アマルコルド》73年など)が幼少年期回想映画の代表格だが、ほかにもダニエル・シュミット(《季節のはざまで》92年)、フランソワ・トリュフォー(《大人は判ってくれない》59年)、侯孝賢(《風櫃の少年》83年、《童年往時》85年など)など多くの監督たちが自身の幼少年期の記憶や回想を映像化している。「私とは何か?」という謎の、ひとつの起源が幼年期にあるからだろう。

 フランスのドキュメンタリストで詩人のクリス・マルケルが作った短編SF《ラ・ジュテ》(62年、テリー・ギリアムの《12モンキーズ》の原作)では、自分自身の未来の死を目撃してしまった少年の一瞬の記憶をモチーフに、ほぼ全ショットをスチル写真にすることで「凍結された時間」「一瞬の記憶」を強調した(わずかに動く場面がある)。現在と過去が入り混じるプルーストの「再記憶」の体験のように、この映画では記憶を通じてのタイムトリップという実験がなされ、そのなかで主人公は過去の私に目撃されるのである。スチル写真による静止・凍結は、近未来の核戦争後という設定にもマッチしていた(当時は「米ソ冷戦」さなかで、黒澤明《生きものの記録》からキューブリック《博士の異常な愛情》まで、核戦争のパラノイア的恐怖感がさまざまな映画で描かれた)。

 映像作家かわなかのぶひろも長年にわたり「記憶」を制作モチーフとしている作家で、《スイッチバック》(76年)《映像書簡》シリーズ1-11(萩原朔美と共作, 79-82年, 94-2010年)《私小説》シリーズ(87-92年, 96年)等の代表作がある。《Bふたたび》(84年)では、記憶と時間をテーマにさまざまな記憶イメージを共存させようとし、冒頭に「目を閉じると浮んでくる、遠い花火のように……」という作者のナレーションが入って観客を記憶の旅へと誘う。そして後半のクライマックスにいたり、泉鏡花の『草迷宮』さながらに「母」の記憶を狂おしく映像的に追い求めていくのである。

 記憶や夢を通して、私たちは自分の無意識の世界、内的なイメージの世界に触れることができる。自分のなかの奥深いイメージ、自分にとって本質的なイメージを見つけだし表現しようとするとき、記憶は重要な糸口となるのである。

 

個人の記憶と集団の記憶

 

 アメリカの女性ビデオ作家フィリス・バルディーノは《現在のこと(In the Present)》(96年)で、「現在」という時間感覚が3~12秒だとするとウィリアム・ジェイムズ(プラグマティズムの心理学者)の説にもとづき、1ショットが数秒で消えては変わっていく作品をつくった。現在という瞬間は短いにしても、私たちは人生でも映画でも「連続した時間」をひとつながりのものとして生きている。そのためには、瞬間ごとに過去となっていく無数の事柄を「記憶」しておく能力がどうしても必要なはずである。

 私たちはごく自然に過去の出来事を思い出したり忘れたりする。それは、体験や出来事を記録し、保存または消去し、あとで再生しているわけなのだが、どうもコンピューターのデータ保存や呼び出しとは本質的にちがっているようだ。ある瞬間にあることを突然「思い出す」という独特な心のはたらきと結びついているからである。コンピューターの記憶と比較すると、メモリー容量と人間の脳のシナプス数(10万×100億という)のちがいだけでなく、単なる貯蔵・検索システムではなく過去の記憶断片が「再構成」される人間の記憶は、はるかに複雑で創造的とされている。

 おそらく人間の記憶は、個人や集団の体験的な記憶を累積しながら、そこに社会や歴史の記憶、さらにはDNAを通じて伝達される人類という種の記憶までが流れこみ、最新の出来事から太古の記憶まで複雑な層をなして混りあっているのであろう。

 つまり、記憶は、夢と同じように私の脳や無意識と深くつながっている一方で、私を通して社会的・集団的な歴史にもつながっている鉱脈なのである。

 アメリカの映像作家メレディス・モンクによる《エリス島》(81年)は、アメリカへの移民たちが入国審査のために留め置かれ数々の悲劇をも生んだエリス島という特異な「場」の記憶をモチーフにしている。音楽家でパフォーマーでもあるモンクは、音楽・ダンス・映像を組みあわせながら、白黒写真が動き出すかのようなスタイルで移民たち(東欧系ユダヤ人と思われる)の集団的・集合的な記憶を凝縮して描く。その一方で、観光スポットとしてツアー客が訪れる現在の姿はカラーで描き、過去と対比している。

 こうした「場」の記憶、あるいは「地霊」(ゲニウス・ロキ)のようなものをアートに取りこもうとする試みは、美術家・岡部昌生のフロッタージュともつながる。フロッタージュはもともとシュルレアリストのマックス・エルンストが創始した手法で、板の木目などをこすりとって意外なイメージを発見するものだった。岡部昌生はさまざまな場(パリの壁や舗道、東京や広島の敷石、古い集合住宅の床や階段、あるいは町のなかに埋めこまれた碑文など)で歴史が刻みこまれた物質からその記憶の痕跡を鉛筆やオイルチョークで直接紙にこすりとり再び浮び上らせようとするのだ。

 

歴史的記憶を掘り起こす

 

 時間が失われたような城館で過去の記憶を手がかりに男が女を説得しようとするアラン・レネの《去年マリエンバートで》(61年、脚本アラン・ロブ=グリエ)や、強制収容所の脳手術により記憶を失い浮浪者となった夫の過去を妻がよみがえらせようとするアンリ・コルピの《かくも長き不在》(60年、脚本マルグリット・デュラス)など、記憶をテーマとした映画はいろいろあるが、迷路のような不可思議なニュアンスをもつ作品が少なくないのは、記憶の不可解さと関連があるのだろう。

アンリ・コルピ「かくも長き不在」

 アラン・レネには《夜と霧》(55年)という、アウシュビッツ強制収容所をめぐる詩的ドキュメンタリーの名作がある。そこでは、草におおわれた廃墟としての収容所跡(カラーで移動撮影される現在)ときわめて少ない記録や資料をよせあつめた過去のドキュメント(モノクロ)、そしてこれからの未来という3つの時間が重ねあわされる。観客に思索を求める映画で、たんに事実や記録だけを見せるのではなく、こうした歴史的な出来事を「記憶と忘却」という観点から考察しているところがレネらしく卓抜である。

 なぜなら、こうした戦争や大量殺戮の歴史的記憶は、つねに忘却(あるいは歴史の書き替え)とセットになった問題であり、また痕跡を消してしまうことは記憶を消すことにつながる点で政治的な問題であるからだ。監督・吉田喜重が《リュミエールの仲間たち》(95年、サラ・ムーン総監督)で主張したように、広島の原爆体験を映画は地上で撮影することができない。爆心地ではカメラもフィルムも焼失してしまうからだ。残っているのは爆弾を投下したアメリカの戦闘機の側から撮った空中の映像だけなのである。あらゆる歴史的映像は、つねにそれを撮影した側の視点から見た歴史の記録でしかない。

 写真家・港千尋は「映画は20世紀最大の記憶の芸術」であり「20世紀の社会的記憶術」であったとしながら、その重要な欠落点あるいは限界点として「ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺「ホロコースト」について、映画はほとんど無力である」と指摘する(『映像論』NHKブックス)。その死の記録が組織的に消去され、それを記憶すべき者の大多数も殺害されてしまったからだ。それをドラマで再現するのは倫理的に許されるのか。強制収容所から生き残ったユダヤ人たちの回想と証言だけを集成した9時間半の映画《ショアー》(85年、クロード・ランズマン)が、いかなる記録映像もナレーションも劇的な再現もいっさい使わなかったことの重要性はそこにあるのだと述べている。

 映像が歴史に言及する一手法として「ファウンド・フッテージ」が近年、重視されてきていることはすでに述べたが(コラム参照)、ハンガリーの美術家・映像作家フォルガーチ・ペーテルによる《プライベート・ハンガリー》シリーズ(《バルトシュ一家》90年、《デュシとイェノ》91年など)は、ホームムーヴィーのアーカイブから無名の一家の歴史(ここでも収容所に送られたユダヤ系住民の体験などは記録に残らない)を探り出し再構成する試みである。やはり埋もれた記憶を掘り起こす今日的作業のひとつといえる。

 

 歴史とはしばしば政治家や国家・政権など統治者の側の歴史であり、ニュースや記録映像の多くもそれを記録している。しかし、ホームムーヴィーには戦争や政変が個人の生活のなかでどう体験され目に映ったかが、家族の歴史とともに記録される。日本ではまだあまり重視されていないが、ホームムーヴィーの文化記録としての価値は、国家の歴史を編纂した「正史」に対し、庶民や世間の生活を書きとめた「稗史(はいし)」に相当する、具体的ディテールにとんだ貴重な資料である点にある。

 

 

ⓒ西嶋憲生 2024