ラ・サラ城での出会い1929

 

 

 スイス・ヴォー州の小さな村ラ・サラ(La Sarraz/ミシュランガイド『スイス』等に従いラ・サラと表記する)にあるラ・サラ城(11世紀にラ・サラ家のため創建、数世紀の間に現在の形に)は、近代にド・マンドロ家のものとなり、1911年の夫の死後からエレーヌ・ド・マンドロ Hélène de Mandrot(1867-1948)が女主人として、また芸術支援者(メセナ)・推進者(アニマトゥール)として活躍した。彼女はジュネーヴの美術学校からパリのアカデミー・ジュリアンに学んだアーティストでもあり、1920年代後半はその芸術支援活動のピークと思われる。

*未読だが彼女に関してAntoine Baudin, Hélène de Mandrot et la Maison des Artistes de la Sarraz, 1999, Payot.(384p)という研究書が存在する。

 

 

この城に彼女が作った「芸術家の家」Maison des Artistesでは、1928年に「近代建築国際会議」(シアム/CIAM=Congrès International d'Architecture Moderne) がエレーヌ・ド・マンドロをパトロンに開催・設立され、カール・モーザーを第1回議長、ジークフリート・ギーディオンを書記として、ル・コルビュジエ、ミース・ファン・デル・ローエ、グロピウスら錚々たる建築家が集結、近代建築の重要なマニフェストとなった。日本人は参加していない。

以降、第2回フランクフルト、第3回ブリュッセル(ベルギー)と戦時中をはさみ、1959年オッテルロー(オランダ)の第11回会議まで開催される(同会議出席者のスミッソンズらチーム・テンにより自主的に解散されたという)。

 

「近代建築国際会議」の成功によってだろうか、1929年9月には同じくエレーヌ・ド・マンドロ夫人をパトロンに「国際独立映画会議」(CICI=Congrès International du Cinéma Indépendant)が開催される。主催は「ルヴュ・デュ・シネマ」とある(1928年ジャン=ジョルジュ・オリオールがパリで創刊)。今から95年前の出来事である。

 

この会議には、エイゼンシュテイン、リヒター、ルットマン、カヴァルカンティら1920年代前衛映画の重要な作家とバラージュ、ムーシナック、オリオールらの批評家・理論家、そしてヨーロッパ各国のシネクラブ関係者25名ほどが集まったが、その中に当時フランス前衛映画の買付に関わった日本人2名が参加しており、二人ともその後「キネマ旬報」に会議に関する報告(当ブログに再録)を寄稿し、貴重な記録といえる。

そのほかに詳しい記録など見当たらなかったところ、1979年にシネマテーク・スイス(ローザンヌ)が発行する「TRAVELLING」55号(フレディ・ビュアシュ編集)に「La Sarraz - Avant-Garde」としてこの会議の特集があり、詳細を知ることができた。

1979年6月にローザンヌでのFIAF(国際フィルムアーカイブ連盟、日本のフィルムセンターは89年から正式加盟)の総会に関連して「Le film indépendant et d'avant-garde à la fin du muet(サイレント末期の独立・前衛映画)」と題したシンポジウムと上映会が数日開催され、そこで50周年となるラ・サラの会議がフィーチャーされ、その記録としてシネマテーク・スイスの雑誌に特集されたのだった。

私がこの雑誌を閲覧・コピーできたのは映画史家の小松弘氏が当時定期購読していて、この特集を教えてもらい、貸してもらったからである。

 

近年の資料としては、Institut Jean Vigo(ジャン・ヴィゴ研究所/シネマテーク・ド・ペルピニャン)発行の"Archives"84号(2000年4月)が「第1回国際独立映画会議 ラ・サラ 1929年9月」という70周年の特集をしていることが確認できる(未見)。

また、その著者の一人、ロラン・コザンデ(スイスの映画史家)は、シネマテーク・スイスでこの会議に関するオンラインのドキュメンテーションを行なっているようだが、下記のURLにはアクセスできなかった。

 

 

1929年の「国際独立映画会議」(CICI)の参加者(各国代表)は「TRAVELLING」55号の資料によれば、ドイツからハンス・リヒター、ヴァルター・ルットマン、ベラ・バラージュ、イギリスからアイヴァー・モンタギュー、ジャック・アイザックス(共にロンドン映画協会メンバー)、オーストリアからフリッツ・ローゼンフェルト、アメリカからモンゴメリー・エヴァンス、フランスからジャン=ジョルジュ・オリオール、アルベルト・カヴァルカンティ、レオン・ムーシナック、ジャニーヌ・ブイスヌーズ、ロベール・アロン、オランダからマヌス・フランケン(ヨリス・イヴェンスの共作者)、イタリアからエンリコ・プランポリーニ、アルベルト・サルトリス(共にイタリア・シネクラブ代表、未来派関係者、サルトリスは建築家でCIAMにも参加)、日本から肥後博と槌谷茂一郎、スイスからロベール・ギィユ(シネクラブ・ド・ジュネーヴ)、アルノルド・コーラー、ゲオルク・シュミット[のちのバーゼル美術館館長か?]、アルフレッド・マセ、他にロシアからセルゲイ・エイゼンシュテインと共同監督・脚本家でパートナーでもあったグリゴリー・アレクサンドロフ、撮影のエドゥアルド・ティッセ、さらに、スペインからエルネスト・ヒメネス・カバリェロ(ラ・カセタ・リテラリア編集長でスペイン・シネクラブ創設者)、ベルギーからも参加予定とあるが欠席だったらしく、総勢25名ほどだったと思われる。

 

1929ラ・サラ。前列に座る(左から)ムーシナック、ルットマン、バラージュ、エイゼンシュテイン、槌谷茂一郎、リヒター、手前は左にティッセ、右にブイスヌーズ嬢とアレクサンドロフ。後列右端に肥後博

 

日本人の肥後博(おそらく当時はシネマ・パレス支配人・前衛映画社社主、のち松竹本社を経て新宿武蔵野館支配人)と槌谷茂一郎(パリ在住の貿易商でフランス語堪能)が招かれた事情は不明だが、おそらく会議前にカヴァルカンティの「時の外何物もなし」「港町にて」を買い付けたのがきっかけではと思われる。槌谷茂一郎は肥後博より先に鈴木重吉が「秋の霧」「ひとで」「貝殻と僧侶」「ラ・ゾーヌ」を買い付けるのにも協力、また衣笠貞之助「十字路」のフランス配給権を預かったりしているので、映画にも関わりがあった人物。

槌谷は1929年に「キネマ旬報」に「フランス映画界短信」(318号)「巴里映画界近信」(322号)「巴里で公開された「十字路」-フランス映画界通信-」(325号)「フランス映画界近事」(332号)「巴里映画界閑事」(344号)等を寄稿、「シネマ旅鞄」という連載(364-367号,4回)をしたり「輸出映画私論」(369号)を寄稿している。371号ではアベル・ガンスの極東への手紙も翻訳している。

また槌谷は1937年パリ万博では日本館の事務取扱として渡仏しており、当時のフランス大統領アルベール・ルブランや杉村大使との写真もあるので要人なのかもしれない(その当時は高島屋宣伝部に在籍しパリ万博に派遣された模様)。

 

ラ・サラ会議ではさまざまな討議や決議のほか、多くの作品が夜に上映され、リヒター、カヴァルカンティをはじめヨリス・イヴェンス、レン・ライ、ロバート・フローリーらの作品や「ひとで」「アンダルシアの犬」「幕間」なども上映された。

 

サイレント映画の末期というタイミング、戦前ヨーロッパの前衛映画の盛期に開かれたこのような稀有な出会いというべき会議に、日本人がたまたま参加したのは奇跡的な偶然とも思える。そこで論議されたインディペンデント映画の製作と上映に関する各国の現状と今後の連帯について、その内容を理解し議論に参加したり即興映画「ラ・サラの嵐」(未完,紛失)に二人とも出演したこと、槌谷氏はすでにエイゼンシュテインの知遇を得ていたことなど、知れば知るほど驚くようなエピソードが多い。

 

なお、先の資料でのフレディ・ビュアシュ(シネマテーク・スイス)の短い記事によれば、この国際会議はその後、1930年(第2回)ブリュッセル、1963年(第3回)ローザンヌ、1964年(第4回)リヨン、1965年(第5回)ローザンヌ、1966年(第6回)ローザンヌ、1967年(第7回)ローザンヌ、1968年(第8回)グーテラ城(ロワール)、1969年(第9回)グーテラ城、1970年(第10回)リヨン・ブリュッセル・ローザンヌ、1971年(第11回)トゥールーズ、1972年(第12回)トゥールーズ、1973年(第13回)ラ・ショー・ド・フォン、1974年(第14回)グーテラ城、1975年(第15回)ブリュッセル、1976年(第16回)ローザンヌ、1977年(第17回)ミュンヘン、1978年(第18回)トゥールーズ、1979年(第19回/50周年)アヌシー、と19回にわたって開かれたそうである。それぞれどんな参加者だったのだろうか(72年に過去のCICIをベルナール・シャルデール*がまとめた小冊子が作られたとある)。

*ベルナール・シャルデール(1930-2023)はフランスの映画批評家・史家、リセ時代にリヨンで仲間と「ポジティフ」を創刊、「プルミエ・プラン」「ジュヌシネマ」も創刊。リュミエール研究所(リヨン)設立時所長

 

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