奪われた妻(55) | 夫の知らない妻

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官能小説「他人に抱かれる妻」別館です。

「女だ! 女はどこじゃ!」

 

息の根を止められた慶次を囲む武士たちはなおも数十人はいるだろうか。

 

次々にかしらの武士を殺され、彼らは皆、狂気に取り憑かれているようだ。

 

「あそこじゃ!」

 

一人の武士が、浜の端にまで逃げた人妻の姿を見つける。

 

どうやら男と一緒にいるようだ。

 

「あれは女の旦那だぜ」

 

「奪還しようってことかい。そうはさせまい」

 

口々に言いながら、武士たちが再び走り始めた。

 

彼らだけでなく、それまで呆然とした様子で見守っていた他の武士たちも、声をあげて一斉に後に続く。

 

「桔梗、走れるか」

 

「うん」

 

「逃げるぜ。どこまでも」

 

潤んだ瞳で頷く妻の唇を、疾風は吸った。

 

「桔梗、こっちだ!」

 

「いくよ!」

 

追ってくる大量の武士たちを睨んだ後、疾風は自分が降りてきた丘とは違う高台に向かって走り始めた。

 

けもの道とも言えそうな、狭く、茂みに隠された逃走路。

 

昨夜から疾風が密かに考えていた道だ。

 

島で生まれ育った男と女。

 

急な坂をものともせず、二人は連れ立って軽快に逃げていく。

 

「どこに行きやがった、あいつら・・・」

 

「あの茂みだ・・・、追え、追うんだ!・・・」

 

深い茂みの中、次々に違う道に飛び込みながら、疾風は追っ手の目をどうにかくらませようとする。

 

だが、武士団の追跡は執拗だった。

 

威嚇するような彼らの声は、小さくなることはあっても、消え去ることはなかった。

 

再び雲から顔を出した太陽が、逃げる二人から余裕と希望を徐々に奪っていく。

 

「桔梗、危ない!」

 

疾風は気づいた。

 

後方から闇雲に放たれる無数の矢が、駆けていく二人の付近に次々に落下し始めたことを。

 

「疾風、私たち・・・」

 

「あきらめるにはまだ早いぜ。じいと慶次のためにもここで死ぬわけにはいかない」

 

「うん・・・・」

 

「そして、佐助のためにも」

 

もう何年も抱きしめていない我が息子のことを思い、桔梗は涙を浮かべた。

 

「こっちだ、桔梗」

 

希望を失いかけた妻の手をとり、疾風は更に茂みの奥に向かって走り出す。

 

「疾風、この道は・・・」

 

深い森を駆け抜けながら、桔梗はついこの間に思えるような過去の情景を思い出していた。

 

「そうさ。こうなったら、あそこに向かうしかない」

 

「私たちの場所ね」

 

「ああ」

 

「わかったわ」

 

愛しあった二人が、遂に結ばれた場所。

 

空に浮かんだ月、生まれたままの姿で抱き合う二人を包むような輝き。

 

柔らかな草の感触。

 

そして、崖の下から届く誘うような波の音。

 

走りながら、桔梗は愛する男に抱かれ、遂に女になったあの夜のことを濃厚に思い出した。

 

やがて、森の向こうに、眩しく広い草原が見えてくる。

 

武士団の声は、後方遠くからなおもここまで届いている。

 

「桔梗、崖だ・・・、崖までいくぜ・・・」

 

「いいわ・・・・」

 

覚悟を決めたかのような夫の言葉に、妻は自らの運命を託した。

 

突如木々が消え、一面の青い草原が目の前に広がった。

 

追っ手の声が、はるか後方から少しずつこちらに近づいてくる。

 

もう逃げ場はない。

 

崖の上に奇跡のように広がる草原で生まれ育った二人には、もちろんそれがわかっている。

 

走り続けた足を緩め、二人は手を握り合ったまま、ゆっくりと前方に向かって歩き始めた。

 

風に揺らぐ草原が、二人の帰還を歓迎するようにざわざわとした音を奏でている。

 

「変わらないな、ここは」

 

「うん」

 

「俺たちの場所だ」

 

そして、二人は崖の端にまでたどり着いた。

 

断崖の向こうには永遠の彼方にまで広がる大海原、そしてはるか下方からは打ちつける激しい波の音。

 

肩を寄せ合うように互いの体を抱きしめ、二人は海の果てを見つめた。

 

「桔梗、もう離さない」

 

「うん・・・・」

 

見つめ合い、二人は唇を重ねた。

 

過酷な現実が、愛し合う夫婦を静かに取り囲んでいく。

 

草原の入り口を封鎖し、武士団は二人を完全に崖の端にまで追い詰めた。

 

「逃げられないのか、これ以上は」

 

疾風、そして桔梗。

 

二人の人生に、終章が訪れようとしている。