私たちの行動の動機は、二つしかないと言われます。

愛か、恐れか。

今、言おうとしている言葉は、愛に基づくものですか?それとも恐れですか?

今、しようとしていることはどうでしょう。



何かに不快を感じるとき、その後ろには、恐れや不安があるものです。

相手が自分を傷つけるのではないかというような恐れです。

それが怒りにつながったりもします。

自分を守るために、いつも身構えていては、そこを天国にすることは永遠にできません。



「今、愛に基づくならどうするか。」

選択の答えは、とてもシンプルなものですね。
私たちの地球


それは願いが叶い過ぎる星


全ての願いが叶う星


私たちがマインドすること、全ては願いとなる


負の願いも、正の願いも


ならば、有能なフリは今すぐやめて


何者かになろうとしなくていい


焦らなくていい


不安や怖れさえ、願いとなってしまうから


私は無知無能な存在であると気づき、委ねてしまおう


ただ穏やかに安らいで、自らを許しているだけでいい


真実の願いのみ願いとしよう
先日、買い物に出かけたときのこと。


世界で一番嫌いだと思っていた人にばったり会ってしまいました。まさに天敵でした。


しかしその時、穏やかに会話をしている私がそこにいました。


当時の憎しみは、すっかり思い出せないくらいスーッと消え去っていたのです。



こんな話があります。

人生は自分が作っている映画のようなもの。

自分が出会う周囲の人々は、自らが役を与えているキャストだと。



思えば、その嫌いだった人に、私自身がヒールという役を与えていたに過ぎなかったのです。名脇役でした。


その時点ではわからなかったことも、長い年月が経過し、後々になってわかることがあります。


目の前の憎き人も、壮大な人生劇場のストーリーの中では、必要な役を担ってくれる人だったりもするのです。


ときおり登場する苦手な人たちも、皆、意味を持って出演している。



それなら、できるだけ今後の展開に期待して。


私のシナリオって喜劇だから・・と、安心して楽しんでるだけでいいかなと、思うわけです。


常識について、夫と議論したことがあります。

彼は常識を好みません。

なぜなら、幼き頃から、常識という言葉に縛られてきた一人でもあるからです。

「そんなの常識だろ!普通に考えればわかるだろ!」

「常識的に言って、無理だね・・・」

特に、こういう場面で用いられる常識という言葉を、彼は好みません。



辞書には、

 一般の人が共通して持っている、または持っていなければいけない知識。理解力。判断力。
 ごくあたりまえのこと。

とあります。


一般の人って誰をさすのでしょう?あなたは一般人ですか?

なにをもって常識であると、決めるのでしょうか?やっぱりそこは多数決ですか?



一般常識という枠の中で持つ夢は、決して常識を超えられません。

常識では不可能だとあきらめてしまっては、発明も奇跡も起こらないでしょう。



自ら縛りをはずした夫は、言いました。

ならば、自分たちの常識の照準を上げていこう。

より高貴な人の常識。より心豊かな人の常識に。
あるCEOがこんなコメントをしていました。


まずは自らを豊かに満たしましょう
十分に自らを満たしたら、他の人の為に支援をして下さい


そうなんです。今までとは少し違います。

今までの日本人は、自分の身を削ってでも人を助けなさいという自己犠牲の精神を美徳としてきたように思います。

私も、人のためになる、人の役に立つ・・・などというフレーズに弱かったように思います。むしろ、そのものでした。

しかし、本当に貧困にあえぐ人が、他人にお金を支援して、その人の家族が生活苦に陥ったとしたら、寸分のうらみも生じないでしょうか?

うらみを生じるなら、それは偽善になりうるのではないでしょうか?

それはお金に限らず言えることです。

ボランティア精神も大事なことではありますが。

まずは自分を満たして、愛することから。

うらみ付きの偽善ではなく、あふれ出た愛を、たくさんの人に提供していきたいと思うのです。