私の良き師である方との会話で、言われたことです。

型にはまった教育を強いては、子供の才能を閉ざしてしまうのよ。

みんながいいって言うことを、この子が喜ぶって、誰が決めたの?

小さく、まとまった子になってほしいの?

当時、私にとって初めての子育てで、気負っていました。

情報や周囲の価値観に流されていました。。

みんな違って、みんな良い

我が子に良かれでいいんだと、脱力・・・


また、教師である友達のお姉さんの話より。

最近の父兄は、できない科目の成績を上げたがる。

できる科目に目を向けて、更に伸ばそうとはしない。

これでは、天才は育たない。

平均的な成績の、平均的なサラリーマンが育つだけ。

確かに・・・


教育論はさまざまですが。

できるだけ、個を尊重していきたいものです。
今の自分にお値段をつけるとしたら・・・


そこに理由は必要ではありません 自分が査定するのですから


それでも、ついついダメ出しをしてないでしょうか?


こことここがダメだから、まだまだかなとか


永遠に、まだまだの人生です



他人からの評価や賞賛を受けたがる人がいます


どうしたら人に認められるだろう?


外にばかり求めていても、なかなか反映されないんですね


自己評価が低いと、他人からも低めの人にみられます


逆に、理由なく高め設定できる人は、自然と高めの評価を得るものです



そこに謙遜は一切必要ありません


自分が自分に与える評価ですから


私はどのくらいの評価額を提示しているか


できるだけ、見直していきたいものです  
突拍子もない発言をする人がいます。

頭の固い私は、ついつい否定に入ってしまいます。

知りうる限りの知識で否定していました。今までは。



でも最近、そういった発言に出会ったときの、対応が変わってきました。

それは、数年前には突拍子もない発言に思われたことが、時間を経て、むしろ正しかったと思えたり、そっち寄りの考えになっている自分がいることに気付いたからです。

地球は丸かった、というのを後から知ったみたいな感覚です。



自分が規定していた狭いものさしでは測りきれなかったものを、浅はかであるとか、突拍子もないなどという認識でとらえてしまうと、後々に恥ずかしい思いをすることがあります。

ですから、なるべく柔軟に。

ここ最近は、あるかもなぁ・・の姿勢になりました。

そう。ただ、彼に時代が追いついていないだけかもしれないし。

私が追いついていないだけなのかもしれないから。
私が本当にやらなければいけない事というのは、


一体どのくらいあるだろう


今、私がしなければいけないと思って力んでいることから、


手を離してみようか



自ら課している課題


自らを縛るもの



それが、自分らしさを奪うものであるならば、


それは、ただの幻想でしかない


それを理由に不平を並べるくらいなら


いっそ投げてしまっても


安らいで、穏やかでいられる方がずっといい
今日は家族三人で名古屋入りしています。ちょっとした旅行なんです。


旅行では、普段の生活をしていては絶対に会うことのない人との接点が生じます。


ホテルのボーイさん、掃除係のおばちゃん、お店の案内係のお姉さん、食事のとき隣り合わせた人、すれ違った人…


少しばかりの会話、たった一度の挨拶、一瞬のすれ違い、一瞥


もう二度と会うことがないだろう人々との触れ合い。


そんな中でのコミュニケーションに学ぶことがあります。


接客という場面では、営業スマイル以上のものを感じさせる自然な笑顔や対応、温かな言葉かけ


単なる通りすがりという場面では、何気ない親切や気配り、その人が発している雰囲気そのもの


非日常で出会う一度きりのコミュニケーションで、見ず知らずの人からもらうエネルギーに、心が温まったりします。もちろん、その逆もあります。


そして、その人と出会うことになった私の発してるものはどうなんだろうと、チェックしてみしたりして。


今日は、温かな人々に出会うことができました。それも、旅行を楽しくする一要素なんですね。


たった一度きりの出会いでも大切にしたい。


そしてなにより、私自身が常に良いエネルギーを発している人でありたい。


そんなことを思った一日でした。