田原祭と花火の関係について | 崋山神社 宮司のブログ

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御神事から社頭の出来事、時には兼務社の神事芸能までご紹介しております。

結論から申し上げます。

現在のような三社祭礼五町合同のお祭り、最終日に盛大に打ち上げ花火が上がるお祭りにいつからなったのか確実なところはわかっていません。

噂話しを公開するわけにもいかず、文献資料が見つかっていないので何とも言えない状況です。

 

田原藩日記の記録(延享~天保)から確実なところを列記すると

①「田原祭」は江戸時代「蔵王権現雨乞御礼踊り」や「田原祭踊り」と呼ばれ、非常に賑やかなお祭りであった。山車や傘鉾の出し物があり、奇抜な踊りを中心に、笹踊りや人形芝居などが行われた。

②祭踊り(俄踊り)の参加者は新町、萱町、本町の町衆のみだった。

③祭りの日時は毎年旧暦8月の中頃、2日間もしくは3日間かけて行われた。

④神社の大祭とは別の大衆娯楽のための現在で言うところの夏祭りであった。

⑤少なくとも幕末までは花火は打ち上げていなかった。

⑥花火は旧暦6月15日の蔵王権現宮(現巴江神社)の大祭のみに許可されていた。

⑦あまりにも華美になり過ぎ予算が不足し、参加者が集まらず断絶した時期があった。

ぐらいになります。

 

ここで田原藩日記に出てくる江戸時代の田原祭りの名称と略年表を掲げます。

延享4年(1747) 「田原雨乞礼踊り」 

※娯楽型祭踊りの起源

寛延2年(1749) 「田原祭礼踊り」

宝暦2年(1752) 「蔵王権現宮祭礼之踊り」

宝暦3年(1753) 「三社の祭礼踊り」

宝暦7年(1757) 「田原祭礼踊り」

※華美になりすぎて予算不足、参加者不足のため中断願い

宝暦13年(1763)「田原町祭礼」

※簡単な祭礼踊りのみになる

明和元年(1764)「町氏子ども祭り」

※あまりにも祭礼のやり方が毎年違うので混乱、口論が絶えず、田原藩の村奉行が出し物を確定するよう命令

明和4年(1767)  「町氏子とも祭礼」

明和5年(1768)  「田原三社祭礼」

※低俗になり完全に中断

安永3年(1774)  「田原両社祭礼」

※再興願い

安永4年(1775)  「田原氏神祭」

安永7年(1778)  「田原三社祭踊」

寛政3年(1791)  「笠ほこ祭」

寛政8年(1796)  「田原三町祭礼」

文化6年(1809)  「田原三社氏神祭礼」

文政3年(1820)  「田原三社祭礼」

文政6年(1823)  「田原氏神祭礼踊」

これ以降も踊り場が変更になったり何とも落ち着きがありません。

祭の名称もめまぐるしく変わっています。

主催者ではない役人側の記録とはいえここまで一定しないのも珍しいと思います。

 

極めつけはこれ。

宝暦7年(1757)萬留帳7月11日の記事から。

お金もかかるし、参加者も集まらず、もう田原祭りはやめたいといってきた町庄屋に対する村奉行様の御叱りの言葉です。

「田原町主催の祭礼だから原則止める、止めないはそなたたちの自由である。しかし、自ら祭礼踊りを企画して続けてきたものを突然今年から規模の縮小や簡略化も考えず全く中止してしまうのはけしからん話である。近年の踊りが徐々に長期間に及ぶようになり、且つ分不相応な(お金のかかる)豪華なものになってきたのは、結局、町民たち一人一人の見栄や自己満足が優先されてきた結果ではないのか。どうにもこうにも続かなくなってしまった原因はそこである。であるならば、最初からやらなければよかった。何の止むを得ない理由もなく完全に断絶してしまうのは、現在かなり遠方の町村でも評判になってきた田原祭礼踊りであるだけに世間体も悪い。」

そして村奉行様から今後の指示が出されます。

「ご領内外に対して今年中止にする表向きの理由としては、田原踊りはここ数年長期間に及ぶようになり、分不相応な華美な踊りとなってきたところへ、自分たちの快楽を優先するようになり、将来的には存続出来ないようになる恐れがあるからとしなさい。今後は田原藩役所の指示により毎年開催は止めにして、1年おきか2年おきに実施し、踊りも出来るだけ簡略化して行うことになった、祭礼踊りを実施しない年は昔から続けてきた通り、三社(権現、神明、八幡)の御神前へ獅子舞だけは奉納して形ばかりの祭礼を行うことになった、今年の踊りは中止にすると発表しなさい。」

町庄屋(町衆)の結論としては、

「田原町庄屋半十郎と町年寄のうちから伝兵衛、三郎兵衛が村奉行所まで参上し聞いたところでは、祭礼踊りに関して先日御役人様から御苦言、御指導されたことに関して全町民大変恐縮していたとの事だった。確かにご不審の通り、例年実施していた祭礼踊りだから止めるのではなく、どのようにでも省略して形だけでも行うべきであること、そこで、前例もあるので今年から本町、萱町、新町とそれぞれの町ごとにやり方を話合い、費用を出し合い、簡単に祭礼踊りを実施したいと思っているとも言ってきた。また、それにつき去年までは三町以外の田原町民や藩士の皆さんへも費用の負担をいただいていたが、右のように決まったので三町の町民が町ごとに祭礼費を負担することとし、木戸外の百姓へは費用負担はお願いしないこととすること、このように決めたからには怠ることなく、毎年簡単に祭礼踊りを実施する考えであることを伝えてきた。」

となりました。

他のイベントならともかく、神賑わいも神社の祭礼の一部。氏神様に関することはやるにしろ、やらないにしろ慎重に判断したいものです。因みに笹踊り、人形浄瑠璃、俄狂言(田舎歌舞伎)、母衣、獅子舞、いずれも田原祭では現在行われていません。他地区では残っているのですが・・・。