今年も秋祭りのシーズン到来です。
神戸青津のお祭りは好天にも恵まれ素晴らしいお祭りになりました。
青津の餅投げは餅投げ専用の櫓から若い衆が後ろ向きで次々と
餅を投げます。まるで餅(御菓子)の噴火です。
秋晴れの青空に舞い上がる餅と笑顔の氏子さんたち。
この幸せが永遠に続きますように。
渡辺家7代の役職を小澤耕一先生の『崋山渡辺登』に記載の「渡辺家の家譜」や『田原藩日記』などから筆者が収集した資料を重ね合わせて列記したところ次のような結果を得ました。7代中、4代のご当主が御留守居役だったのです。御留守居役とは要するに大名の外交官、渉外役のような役回りです。渡辺家はその御留守居役を田原藩邸において代々引き継いできたようなのです。主な業務内容としては幕閣要人との内々の交渉、法令の入手、情報収集、儀式などの問合せ、また、他藩御留守居役との情報交換も重要な任務の1つでした。
第1代 渡辺定重 給人 貞享4年(1687)没
第2代 渡辺 某 御留守居役 享保7年(1722)没
第3代 渡辺定泰 御留守居役兼御取次 宝暦2年(1752)没
第4代 渡辺 某 御取次 宝暦2年(1752)没
第5代 渡辺定延 御留守居添役 寛政4年(1792)没
第6代 渡辺定通 御留守居添役仮御取次役から御年寄末席 文政7年(1824)没
第7代 渡辺定静 御年寄末席 天保12年(1841)自刃
1代目は記録が古すぎて御留守居役に就任したかどうか不明。4代目も早逝してしまっていて御留守居役には就任していないものの、長生きしていれば御留守居役に就任していた可能性が高いと思われます。何故なら江戸時代、藩士は父や祖父の役職を引き継ぐケースが多かったからです。崋山先生もはっきりと御留守居役に就任したという記録は見つかっていませんが、御年寄役(家老)就任後、非常に勝れた外交手腕を発揮しています。紀州藩の難破商船漂着物を表浜領民が横領してしまった事件を罪人を出す事無く、示談、和解に持ち込んだ根回しは奇跡の交渉術といっていいでしょう。幕府に対する助郷(負担の大きい宿場町のお手伝い)免除の承認などは並の御留守居役には出来ない事です。ただただ強引に夫役の免除を幕閣にお願いすれば心証を悪くするだけですから。田原藩が天保の大飢饉にさいして餓死者ゼロで乗り切ったことに対する幕府からの褒賞も、崋山先生が幕閣に対して申請の願書を書かれました。これらなどはご本人の才能もさることながら、渡辺家に代々受け継がれてきた人脈や実績とも無関係では無かったと思われます。
渡辺定通巴洲先生像
因みに崋山先生のお父さんの定通氏も一見剛直、武道一筋の武士に見えて、意外と多芸多才でした。田原藩の剣術指南役を務めたかと思えば、藩主の侍講(儒教の先生役)を務めたり、俳諧の心得もあったりしたようです。面白いところでは醴(あまざけ)作りの名人でもありました。崋山先生はそんなお父様、お爺さまの働きぶりをみながら大きく成られたのです。後年、尚歯会において大身の旗本や大藩の有力藩士と交流し、西洋事情を教授する中心的な役割を果されたご功績もさもありなんといったところです。
この度、『崋山先生の教育論』という本を刊行しました。といっても、論文形式の難しい理論ではありません。著名な画家ではなく西洋学者でもなく、武士としての渡辺崋山先生の心の声を伝えたくて、主に田原藩士向けの御手紙から教育に関するものを現代語に訳して掲載したのです。田原藩士の皆さんに言いたかったことを、現代の皆さんにもそのままお伝えしたかったのです。先生は世界で活躍するような偉い人間になれなんて一言もおっしゃっていませんでした。藩校成章館再興の折、御手紙で国元藩士に繰り返し述べられていたのは、〝思いやりの心〟が何より大事だぞ、これだけと言っても過言ではないでしょう。家庭教育にあっては〝親孝行〟が何より大切だと考えていらっしゃいました。特に、親が自分の両親に尽す姿を子供達に見せることが重要だと考えていらっしゃったようです。この本によって先生の藩校成章館再興にかける篤い思い、教育者としての理想像、御自身の子供達に見せようとした父親としての生き様が皆様に伝われば幸いです。
田原市内の各書店で販売中です。
文字の読み書きができるということは、人として生れたものの特権といえる。神様から与えられた尊い能力と言ってもいいだろう。文房具や本は自分なりの表現方法を得る、もしくは広い世界を知るための聖なる道具だと言うと大袈裟か。いやいや。誰もが勉強、学習することは当たり前になってしまった現代。次のような話を読むと読み書きができるという事は、いかに貴重で有難いことか改めて思い知らされる。
(かつて土地の名士だったという)田村金兵衛宅を訪ねた。というのも次のような興味深い話しを聞いたからだ。彼の姉という者が岩本家の女将さんの弟の家に嫁いでいたそうだが、(何年前のことか)その家が没落し夫も死んでしまい実家のある(下久方村)故郷に戻ってきた。(といっても住む家もなく、)妹の家を間借りして彼女は読み書き、手習い事など教える塾を開いた。(なかなか繁昌して今も)多くの教え子がいるそうである。もともと田村家も昔は絹を売買する大きな商家であった。ところが、兄の金兵衛が若い頃に分不相応な贅沢な生活を続け、家業は衰え実家はなくなってしまっていた。というわけで、兄の金兵衛も妹(名前は梶)の家を借りて兄姉一緒に塾を経営しているのである。この彼らの母親というのが非常に元気なおばあさんで現在御歳八十余歳。彼女が七十八歳の頃の話だ。自分はこの歳まで文字の読み書きができないまま生きてきてしまったが、ふと文字を勉強したい思いたったそうだ。私の目はまだ見えるのに文字が読めない、口も達者なのにこの気持ちを文字に残すことができない、これは残念だ。今から読み書きを学ぼうとしても此世に生きているうちに出来るようになるか分らない、せめて来世でも役に立つようになればよいので勉強したいと。そこで自分の子供のお梶に相談してみた。彼女からは、私は(その歳で今さら読み書きを勉強したいなどといった)御母様の気持ちが理解できないが、あの世のことはともかく、この現世で役に立つこともあるだろうと言われ、しばらくして「イロハ匂ふ」という文言が書かれた初心者用の読み書きの手本を渡された。すると奇跡が起きた。昼は麻の糸で布を作り、夜は蝋燭の火で読み書きの勉強を始め、そうこうしているうちに今年、六、七年経つがとうとう文字を読むことも、書くことも思いのままに出来るようになってしまったのだ。しかも、いまだに夜の勉強は欠かさず、夜の午前二時頃まで寝ずに読み書きの練習をしているそうだ。また、そんなおばあさんに更なる大奇跡が起きた。今年春のことだという。前歯二本が新しく生えてきて徐々に大きくなってきたのを知らなかったところ、ものを食べるときに始めて気付いた。心底驚いて、こんな歳になって(歯が生えるなんて)恥ずかしいからと抜こうとしたので、家族全員で押しとどめた。今は三ミリほどに成長したそうである。
渡辺崋山集第二巻『毛武遊記』より
地位や名声を得るためではないのだ。おばあさんの純粋な学習意欲、知りたい、表現したいという気持ちが伝わってくるようだ。もちろん、学ぶということに歳は関係なし。若くても、学ぶことを止めてしまったらそこから老化が始まるのだ。逆に老いても学ぶ意欲さえあればまだまだ若いといえる。たった一度きりの人生。出来るだけ長く若く瑞々しい頭脳でいたいものだ。好奇心旺盛で新しい世界を知る毎に欣喜雀躍して活動したいものだ。最後のおばあさんの新しく生えてきた歯の話の真偽はともかく。(苦笑)いや、そんな奇跡も起きるかもと信じてみるのもいいじゃないか。そう思わせてくれる『毛武遊記』の一幕だった。
原文
田村金兵衛を問ふ。こは此姉なるもの岩本の母が弟の家に嫁せしが、家おとろえ夫死して故さとなれば此にかえり、手習ふ事をもて多くのおしえ子あり。本此家は絹買商人なるが、金兵衛わかき時奢侈なりけるをもて、家ほろび、妹名は梶の家かりて、共に此なりわひをなすなり。此はらからの母親なりけるはいとすこやかなる嫗にて、今年八十余、此七十八歳のとしでものかく事も得ならざりけるが、さてこころにおもふ様、われ眼ありて字をしらず、口ありて此情言あたハず、今より字をまなびたらむにハ此世はいかにせん、せめて後の世の便にもなりなんやと、おのが子なるお梶に問ひしかバ、わらハしらぬ事ながら後の世はさて置、此世の用にも立ぬらんとて、やがていろは匂ふといふ歌をかきてあたえしかバ、昼ハつミ衣ぬひ、夜ハ燈をかかげ、手習ひし、ことし六七年ばかりもかくありしかバ、昼ハ苧をつミ衣ぬひ、夜ハ燈をかかげ、手習ひし、ことし六七年ばかりもかくありしかば、今物読事も字かく事も心のままにぞありける。されど今に夜習ふ事ハ廃らず、丑三つ頃までもいねずとぞ。又うばに一奇事あり。今年春の事なりけん、前歯二本萌していと大きやかなるをしらざりけるが、物喰ふとて見いだし胆ヲけし、いとはづかしとてぬかんとするをおしとめて、今壱分ばかりにハなりし。
註
田村金兵衛―下久方村(桐生市)で織物業を営むかたわら、橘守部に師事して和歌を学ぶ。晩年、妹梶子経営の寺子屋の師匠をつとめた。
岩本―崋山先生の妹、茂登が嫁いだ絹織物問屋岩本家のこと。
梶 田村梶子。江戸で橘守部に師事し和歌を学ぶ。文化年間田村家建て直しのため帰郷、兄金兵衛と織物業を営む。のち林兵衛と結婚。下久方村に持家を新築して寺子屋を経営。文久二年没。
苧 麻の一種。茎の皮を縮みなどの繊維に用いる。
胆ヲけし 非常に驚く。
壱分 約三ミリメートル。