絹の帯 | 崋山神社 宮司のブログ

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御神事から社頭の出来事、時には兼務社の神事芸能までご紹介しております。

前回の記事の続きです。

あろうことか、勧進興行で賑わう神明社境内に幕府の奢侈禁止令に抵触するものが現れました。

芝居小屋に農民には禁止されている絹の帯を締めている女がいたのです。

娯楽の少なかった江戸時代です。

田舎ではめったにない見世物興行やお芝居ですし一時的に感情が高ぶったのでしょう。

身分制の江戸時代です。質素倹約が美徳とされた時代です。

幕府により農民の着物の材質は布(麻など)か木綿と決められていました。

衿や帯なども絹のものは厳しく使用を禁じられていました。

にもかかわらず、その御法度の帯をして観劇に来てしまったのです。

すぐに監視役の足軽に見つかり、郷目付によって帯は没収され切られてしまいました。

 

しかも、そこが神社の勧進興行が行われている境内地だったことで話が少しややこしくなります。御目付が御法度の女がどこの誰か問いただそうとしたところ、神主と町庄屋が騒ぎを聞きつけて割って入ってきました。

 

『田原藩日記 第一巻』天和三年(1683)萬留帳 十月朔日の記事には、

「御城にてご家老衆の話合いあり。村奉行以下の役人に、先月二十四日田原神明社境内の芝居小屋にて御法度の(絹)帯を締めていた者がいたので、(郷)目付の彦兵衛がその場で問い糺し帯を切断した。加治村の者だという話しだった。すでに知らせてあった通りこれは江戸幕府から出された奢侈禁止令に背く重大な違反行為であるから厳しく取り調べを行い、違反者には入牢を命じるようにとの御指示があった。そこで、村奉行石川武右衛門宅に両代官を集め、(加治村は)鈴木八太夫の担当区域なので彼にこれまでに分かったことは何だと尋ねたが、今一つ詳細が分からない。そこで当日の警備担当責任者だった足軽隊長の九郎左エ門に尋ねたところ、足軽の又右エ門が違反者を発見し、郷目付の彦兵衛が帯を切り芝居小屋の入り口にかけて置いたという話しだった。加治村の誰だというところまで取り調べたところで、神主の金田佐左エ門と町庄屋の長三郎がその場に割って入り、その件はまた後日申し上げます。ここは我々にお任せください、というのでやむなく引き上げた。ただ、その場にいた見物客からの情報では御法度の帯をしていたのは加治村組頭(庄屋配下の村役人)源左エ門の娘だ、という話しだった。というところまで判明した。そこで、九郎左エ門に直ちに加治村へ行き違反者はもちろんのこと禁止令を周知徹底できていなかった罪で庄屋を捕縛し牢屋に入れるように命じたところ、…(中略)…、すでに組頭源左エ門と彼の娘は檀那寺である野田村安楽寺で自主的に謹慎中であるとの報告をうけ、加治村庄屋三四郎のみ入牢ということになった。」

とありました。

 

何とかここは自分たちに任せて欲しいと下役人の足軽を説得しています。境内地、芝居小屋と言う事もあり一旦彼ら役人も引き下がったようです。芝居小屋の中で御取り調べが始まったのでは観劇どころではありません。神主、町庄屋としては何とか勧進興行を滞りなく進めたい思いがあったのでしょう。

それにしても江戸時代の奢侈禁止令は徹底しています。しかも、違反した者には厳しい罰則が待っていました。いや、違反者だけではありません。上の記事にあるように指導が緩かったという理由だけで庄屋さんまで牢屋に入れられてしまいました。もちろん農民だけではなく町民、武士も規制を受けていました。禁止令には細かく身分ごとの服飾規程があり、材質ばかりか帯の長さ、光沢の有無、刺繍の有無まで規制されていたのです。

まるで、現代の中学校や高校の制服規程みたいです。詰襟は高さ何センチまでとか、スカート丈は膝上何センチまでとか…。少しでも他人との見た目の違いを見せたい者とそれを規制する側。今も昔もそのあたりの事情は変わらないのかもしれません。

 

ところで、この後の流れはちょっと異例の展開となります。

通常、罪人の弁護は檀那寺のお坊さんの担当なのですが金田神主が単独で買って出ます。

今回の絹帯の一件は神社の勧進興行で起きたということで責任を感じたのでしょう。

『同』天和三年萬留帳 十月四日の記事に、

「田原神明社神主金田佐左エ門が村奉行宅に参上。御役人様が加治村庄屋に牢屋入りの刑を御命じになられましたこと、まったくもって当然のことと存じます。私自身、(神明社拝殿建立に伴う芝居興行での一件だけに)非常に心を痛めております。というわけで本来なら直ちに御役人様の元へ参上しお詫び申し上げたかったのですが、何しろ江戸の御公儀様(将軍様)の御法度に背いた者。おいそれと参上するわけにもいかず態と延期しておりました。また、本来はお寺さんが罪人弁護の御担当ですが、今回は神社関係の行事で起きた違反ということもあり、通常の場合と異なり神主である私もお詫びと御宥免のお願いに参りました。加治村庄屋さんも牢に入れられ三日になります。そろそろ出牢をお許しいただきますようにお願い致します。(以下略)…。」

とありました。

神主が罪人の弁護をするなど異例中の異例です。

田原藩日記第一巻から第十二巻までのなかでももう一例ほどあったかなかったか。

ただし神主の弁護の効力はというとほとんど無かったようです。

この後、結局加治村の庄屋は出牢できるわけですが、神主の弁護によるものではないと神主自身や周囲の関係者に対して藩役所からわざわざ断わりを入れています。

非常に稀なケースだったので御紹介しました。