いつの世でも新しく事業を始めるとなると苦労はつきものです。
それは江戸時代の神社でも同様でした。
まして、神社の御遷宮に伴う勧進興行ともなれば宮司(社家)が田原藩役所にお伺いを立てなければならず、許可を取る事、これ自体がなかなか大変な仕事だったようです。
「両寺社奉行を通じて御城下総鎮守田原神明社の金田宮司から拝殿を建て替えたい、それにつき境内地内で見世物興行を行い、売り上げの一部を建て替え費用にあてたい旨の願いが出された。」
天和三年(1683) 萬留帳 七月十七日
「(新規事業につき国元では判断できず)金田宮司からの見世物興行の願書を江戸の殿様まで送り届けたところ、もう少し詳しく報告するようにとの返事だった。そこで国元のご家老が金田宮司に対して改めて詳細な事業計画をお知らせするようにお命じになった。」
同 八月十八日
とありました。結局、
「金田宮司の拝殿建立に伴う見世物興行の許可が江戸表のお殿様から出された。ただし、(火災の危険があるため)田原町内で行う事は禁止、町外の(火災の危険のない)然るべき場所で行うように、また、火事を出さないように、(ケンカや)不法行為がない様に厳重に警戒するようにきつく命じられた。」
同 九月六日
「鈴木代官から見世物興行にやってきた役者の一座が、田原町内の宿に宿泊したい旨の希望があるとの報告を受けた。各村にバラバラに宿泊されると御法度の博奕が行われる危険があるので村奉行としては夜間の警戒を厳重にするように釘をさして全員、町内で宿泊の許可を出した。」
同 九月十日
ということになりました。
江戸時代の行政区画は大きく分けて二つ。
町と村でした。
小藩とはいえ町では基本的に貨幣経済でしたし、土地や耕作地は制限がありましたから農村部の鎮守神のように広大な社有地の枝下ろしをして薪として売却して遷宮・修復資金を調達するわけにもいきませんでした。
結果として勧進興行主体の神社運営になっていったというわけです。
ただ、新規の事業となると…。
何かとトラブルはつきもので。藩役所としては特に治安の悪化と火災には神経を尖らせていたようです。
このあたりの状況は現在も似たようなものかもしれません。