春は名のみの風の寒さや。

谷の(うぐひす)歌は思へど

時にあらずと (こゑ)も立てず。

            

氷解け去り(あし)(つの)ぐむ。

さては時ぞと 思ふあやにく

今日もきのふも 雪の空。

 

春と聞かねば知らでありしを。

聞けば()かるゝ 胸の(おもひ)

いかにせよとの この頃か。

            『新作唱歌 第三集』より  (本来ルビはすべての漢字にあり)

 

 

 

  詩の意味と考察

1連

春とは名前ばっかりでまだ寒い、というのですが、これは立春の日を意味しています。

暦の上では立春、春だって言ってるから歌おかなと思った谷のうぐいすさん、この寒さじゃまだだわ、「時にあらず」と思って止めてしまったのです。 

 

2連

氷がすっかり解けて、葦が角ぐんでいます。

ちょっとずつ雪や氷が溶けて来て…じゃなくて、解け去ったのです。

あたたかくなって茶色い地面にアシが芽を出したのですが、アシは緑色のツンととがった筍のような芽を出します。その様子を芽吹くではなくて、角ぐむ、といいます。日本語の美しさを感じます。

双葉が出るのを<芽吹く>、とがった芽を<角ぐむ>、きれいですよね…ちゃんと想像できますから。 

そのアシの角ぐんできたのを見たうぐいすさんが、嬉しい、これはもう春なんだわ、歌お、って思ったのに残念、雪が降ってきそうな空…またやぁ~めた、って小さくなっちゃったうぐいすです。

 

「あやにく」は生憎。

3連

立春だ、もう春だよ、と聞かなかったら知らないで我慢して寝ていられたのに、聞いちゃったものだから、早く暖かくなってよ…と胸がせかれる可愛いうぐいすさんの心です。

 

 

  歌の誕生

大正2年『新作唱歌』第3集で発表されたもの。

作詞した吉丸一昌は『尋常小学唱歌』の作詞委員を務めていましたが、一連の文部省唱歌には、教育的すぎると批判的だったようで、もっと自由で新しい歌を作りたいと考え、若い作曲家たちを集めて、明治45年、自作の『幼年唱歌第一集』を発表、後に『新作唱歌』と改題して、大正3年10月までの間に全10集を出し、計74曲を掲載しています。

その中には、「早春賦」の他に「故郷を離るゝ歌」ピンク音符園の小百合ナデシコ垣根の千草)も入っています。

 

 

  『新作唱歌』

吉丸が自分でつくって出したものですが、出版のきっかけになったのは、明治42年に東京音楽学校の教授となって、『尋常小学唱歌』の編集委員に任命されたところにあります。

『尋常小学唱歌』はその後の日本の音楽教育の基礎を築くことになるのですが、その編集にたずさわりながら、文部省が作る文部省唱歌に批判的であったらしく、自分が理想とする楽譜をつくろうと、『新作唱歌』に取り組んだのです。

 

おさめられているほぼ半分の曲が日本人の若い作曲家たちの作品で、残りは外国の曲をもとに詞をつけた歌になっています。

若手を育てるという考えがあって、作曲家の中には、中田喜直の父の中田章や、「城ケ島の雨」を作曲した梁田貞、「浜千鳥」や「叱られて」などの作曲の広田龍太郎、「七つの子」や「青い目の人形」「赤い靴」「シャボン玉」など童謡の本居長世のほか、北村季晴、大和田愛羅などの人たちがいます。

作詞にあたっては、わらべうたや民謡など日本の調べに発想を求めたといわれています。

やさしい話言葉で書かれていたり、ユーモアあふれる歌詞もあります。

第五集の「故郷を離るゝ歌」も有名ですが、ほかにも「お玉じゃくし」や「飛行機の夢」「木の葉」などは小学唱歌に採用されています。

この唱歌集のひとつの特徴は、歌詞の内容や表記が自由闊達なことですが、この唱歌集からやがて童謡というジャンルが生まれてゆきます。

その意味で重要な唱歌集といえます。

当時、『新作唱歌』は大変な人気で、一世を風靡したのですが、人々受け入れられた理由のひとつは、その斬新さにあったと考えていいと思います。

『新作唱歌』にはいっている珍しい、滑稽な唱歌のひとつを次にあげてみましょう。

 

     なんだっけ?!

 

   一 背戸の藪から、のそのそと

     とのさま蛙が(まか)り出て

     両手をついたが、やや考えて

     わたしの用事は、なんだっけ?!

 

   二 太郎使いに出て行って

     みちくさ喰って暇取れて

     行ったは行ったが、やや考えて

     わたしの用事は、なんだっけ?  

 

『新作唱歌』に掲載された「早春賦」は、発表以来、多くの人たちに愛されましたが、戦後の昭和22年には、「早春の歌」という題名で、小学校の「六年生の音楽」の教科書に採用され、学校でも教えられるようになりました。

その後、題名はもとの『早春賦』に戻されました。

 

吉丸の作風は後に童謡運動に参加する北原白秋・西條八十・野口雨情らの詩に影響を与えました。

又、本居長世・成田為三・山田耕筰・弘田龍太郎らの作曲家は吉丸の教え子で新作唱歌から出発しています。

中田章はオルガン奏者で、東京音楽学校教授。中田喜直、一次の父。

 

 

  歌の故郷はどこ?

吉丸は東京音楽学校の教授時代、夏期講習の講師として長野県の南安曇野にしばしば滞在したことから、この歌の故郷は穂高町あたりの雪解け風景を歌ったもの、と書かれたものや、吉丸が、信州安曇野の隣町にある、大町高校という学校の校歌を作ることを依頼され、安曇野を訪れ、その美しい景色に魅せられて書いた、などとする説があるようですが、確証はありません。

早春賦のふたつの碑のうち、音符碑は平成5年に建立されていますが、碑の除幕式のときに町役場が出した記念本には、

 

  九十三才のご高齢で参加されました東京の吉丸先生宅で長く家政婦をされていた

  山本はなさんは、(吉丸が)「早春賦」を作っていた当時を振り返り「(先生

  は)温泉旅行の帰りに安曇野を通り、その感じを思い出しながら作詞されまし

  た」と、涙ぐみながら話されたのは印象的でした。またこのお話は、早春賦の舞

  台は安曇野だという定説を裏付けるものとなると思います。

 

との主旨が記されています。

 

左から吉丸一昌をした碑、音符碑、歌詞の碑。 安曇野公式ホームページより引用

 

吉丸は安曇野をとても好んでよく出かけていたことは確かですし、歌碑も建てられているのですが、安曇野の風景を描いたものではないと思います。

というのは、役場で聞いた話ですが、その辺りには昔からアシは生えていないのだそうです。

遠くに八ヶ岳連邦がつらなって見えるふもとに、豊かに澄んだ穂高川がゆったりと流れています。

その冷たい清流を利用してわさびの田んぼがあちこちにひろがっています。

そんな広々とした風景が一望できる川の土手に早春賦の歌碑が建っていて、「早春賦」の詩の雰囲気にはぴったり、という感じはしますけれど、そういう澄んだ水が流れているところにはアシは生えないようです。

ですから、安曇野の風景を歌っているわけではないということになります。

 

でも、詩は、詩人の頭の中で想像したものを膨らませ、広げて書くものですから、はっきりとした場所がわかっていないというのも、その詩を読む私たち皆がそれぞれに想像できて、それもいいものかもしれません。

ちなみに、歌碑は信州の安曇野と吉丸の故郷、九州の臼杵に建っています。

 

吉丸にとって安曇野は、忘れられない、親しみ深い地だったようです。

 

「藤原のり子の日本歌曲の会」が発行している<ゆめの絵楽譜>(ピース:一曲ずつの楽譜)の表紙絵です。

日本画家の畠中光享画伯に描いてもらったものです。

 

 

春を待つ心をもっともよく表現した歌といえば、それは、早春賦だと私は思います。詞も、曲もすばらしく、春浅い農村の風景と、まだ冷たい空気におおわれた山里の雰囲気が、うまく表現されています。そんなところに私たちは感動をおぼえるのでしょうか。多くの人の好きな歌の上位に入っています。

 

 

  生い立ち

吉丸の生い立ちはあまり知られていないようですので、簡単に書いておきます。

明治6年9月15日、豊後国北海部郡海添村(現大分県臼杵市海添)に生まれました。

父親は、臼杵藩の下級武士で、幕末から明治にかけて貧しい生活を強いられていました。吉丸は長男でした。

 

貧乏でしたが向学心に燃え、大分中学から熊本第五高校(現 熊本大学)へと進みます。

成績は優秀で、県からの表彰状などが臼杵市立図書館に保存されています。

しかし、家庭はまずしかったため、次男の章、三男の充、は養子に出されています。

吉丸の服装もぼろぼろだったようです。

あるとき宮様が五校を訪問されることになり、学生は校門から玄関までの道に整列してお待ちしました。そのとき、体育の教師が前列にいる吉丸に気づいて、「吉丸後列に下がれ」と命令したそうです。

当時の高校生は、弊衣(へいい)破帽(はぼう)で知られていますが、吉丸の服装は、ひときわひどい弊衣破帽だった、といいます。

宮様にそんな姿は見せられないと、後ろにさがらされたのですが、実際は、吉丸が貧乏で服を買うお金がなかったのです。

 
弊衣(へいい)破帽(はぼう)とは、身なりを気にせず粗野なこと

足の遅い吉丸が、運動会の五千メートル競走に出場して、同級生たちを不思議がらせたという話もあります。

一等の賞品は学生服、と聞いて、みんなはなる程と合点したということです。

ちなみに吉丸の順位はびりでした。

熊本高校から東京帝国大学文科へと進学。

 

在学中に、地方から出てきて苦労している学生のために生活を共にし、勉学、就職の世話まで面倒を見る修養塾を作ります。

また、大学を卒業した後、東京府立第三中学校(現 両国高校)に勤めますが、そのかたわら、家庭の事情で勉強できないでいる子供たちのため下谷中等夜学校を作りました。

自分自身が苦学のつらさを知っているために、こうした力を後輩のために尽くしたのだと思います。

吉丸は中学から以後、稲葉家が出していた奨学金をもらっていましたが、大変、恩義に深い人のようで、この稲葉家に吉丸は終生、感謝していました。

 

大正5年3月7日早朝、心臓狭窄病で、42歳の生涯を閉じました。

毎晩一升ずつ干した、という大酒が原因であろうと言われていますが、その死ぬ直前、子供たちを呼び寄せ、「國のためにつくせ」と言い残したそうです。
 

 

  歌の旅

吉丸の生まれ故郷の大分県臼杵市の旅をしましょう。

大分駅から日豊線の臼杵駅で降りると、駅前は広々とした道で、九州の明るい光がいっぱい降りそそいでいました。

人の多い大阪に住んでいる私には、不思議な感じがするほどの広さと静けさでした。

人通りも少なく、ああ異郷にきたな、という思いつつまれ、軒の低い家並みをながめながら、「早春賦の館」と名付けられた吉丸の記念館へ行きました。

記念館は、吉丸の生誕百二十年を記念して、吉丸の最初の妻ユキの実家に開館したものです。

ユキは19歳で吉丸と結婚し、2年後の21歳で、短い生涯を終えています。

記念館は、築地塀に囲まれ、立派な門構えの二階建てです。

門を入ると砂利を敷きつめた庭があり、飛び石が玄関までつづいています。

古い面影をいまも伝えているお屋敷で、中も昔のままです。

畳を敷いた居間がそのまま展示室にしてあり、部屋の真ん中にショーケースが置かれていて、そこには、吉丸直筆の楽譜や遺品やレコード、文部省の辞令など、ゆかりの品々と、鴨居にはたくさん写真が並べられていました。

ひと通り見終わって帰ろうとしたときです。受付の女性に声をかけられました。

「庭にまわって、ぜひ梅を見ていってくださいよ。いま満開ですから」

庭に降りると、坪庭のような庭に、座論(ざろん)(うめ)という珍しい梅が、淡い赤い花をいっぱい枝につけていました。

古い写真の上、肝心の梅の花があまりよくわからないですが、ご容赦。これしかなくて…。

 

次は、吉丸の生家です。

吉丸の生家の書かれた地図は大ざっぱでわかりにくく、しかもはじめての町なので、探し回りました。

人にたずねたくても通る人はほとんどなく、あたりには人の声も聞こえてきません。

路地の中をうろうろと歩きましたが不思議と閉塞感がありません。

さびしくも、こわくもないのです。のんびり暖ったかです。

そのとき気づきました。

駅に降り立ったとき感じた広さは、九州の明るさでしょう。

それに加えて家々の屋根が低く、空がいっぱい見えるのです。

空がいっぱい、という表現は笑われるかも知れませんが、都会に生きている私には、ふだん見上げる空は、ビルの間の四角い空か、どこかきゅうくつそうな空です。

ところが、ここではちょっと瞳を上げるだけで空が目に飛び込んできます。

視野のほとんど全部が、空、といった感じだったのです。感動的でした。

そんな広い空いっぱいにあふれている太陽の光が、明るく路地のすみずみまで照らしていたのです。

臼杵の町は、どこへいっても光と一緒なのです。

 

やっと見つけた生家は、現在は、Mさんという方の家になっていました。

吉丸はこの家に7歳ころまで住んでいたようです。

Mさんは家を買い取った後、あちこち改装されているので、吉丸が住んでいた当時のものは井戸だけだそうです。

しかし、家のあるあたりは碁盤の目に路地が通り、静かな、かつての城下町の面影が残っていました。

 

 

  こぼれ話

吉丸が中学生だったころ、臼杵と大分の間にはまだ汽車がありません。

ですから吉丸は、土曜日になると、臼杵の家に帰り、日曜の午後には学校のある大分へと、山を越え、行き来しました。

この山越えの頂上にあるのが御所(こせんた)峠という峠です。

峠からは、静かなたたずまいの臼杵の町が、山にはさまれたように見えます。

きっと吉丸は、峠から見下ろして町に向かって、「ただいま」「いってきます」と、何度も心の中でいったことでしょう。

このなつかしい思い出が、やがて「故郷を離るゝ歌」の歌詞の三番になったといわれます。

ピンク音符此処に立ちて、さらばと、別れを告げん、山の陰の故郷、静かに眠れ。夕日は落ちて、たそがれたり。さらば故郷」

 

 

  アシはヨシ?

アシは<悪し>に通じると言って、最近は<ヨシ>と呼ばれるそうです。

ものの悪しきにつながるイメージだから、<よし>にするって、なんか引っかかりませんか?

<アシ>という植物なんですもの、アシでいいじゃない、と思うのですけれど…。

そもそも我が国のことを古来 <(とよ)葦原(あしはら)瑞穂(みずほ)の国> と称していたのはご存じですか?

国の沿岸、湖川などに広く葦が茂っていた事を物語るもので、葦の原を切り開いて米を作った国、と言う意味でついた名前です。

『古事記』『日本書紀』の記録をはじめ、万葉の優れた歌を見ても、古代日本人と葦の間には、深いつながりがありました。

結局、どちらかに統一することができず、ヨシという名前とアシという名前と両方が残っているのですから、ややこしいことです。

 

 

  あしの雑学

本名 「蘆」

別名  葦・葭・芦(全部アシ)・簾葭(すだれあし)・浪速草・よし・はまおぎ・たまえ草。

『和漢三才図会』には、蘆は<青し>の中が省略されたものと説かれています。

万葉集はもっぱら<あし>と言い、<よし>は用いられていません。

 

初夏になると緑の若葉が風にそよぎ、夏の間よしきりが渡ってきて巣を作り、にぎやかに鳴く風景が見られます。

 

初秋になると、灰白色の花をたくさん付けるのですが、その花を清少納言は「芦の花は見どころなし」とけなしています。

でも、文豪、徳富蘆花(本名 徳富健次郎)は、その平凡なところを熱愛して、ペンネームをアシの花<蘆花>としていることは有名です。

 

西洋では17世紀のフランスの哲学者パスカルが、大自然に比べると人間は一茎の葦のようなもので、もっとも弱い存在である。しかし、人間は単なる葦ではなく、<考える葦である>と言ったのは有名ですよね。

 

 

  うぐいすの雑学

いろんな昔話がある中で、こんなお話しもありました。

 

「昔、一人の少年が、事情があって、ある寺に預けられた。

ところが、この少年はお経の覚えがよくないので、和尚にいつも叱られていた。

ある日のこと少年は「春になったら帰って参ります」と言い置いて寺を出て行った。

やがて、春がやってきたが、少年は帰ってこない。

しかし次の年からは春になると、ウグイスが飛んできて、寺の境内のウメの木で歌うようになった。<法華経>。

それは、山にこもって修業している少年の化身であるウグイスが、読経の上達ぶりを和尚に聞かせているのであった。」

 

と言うのです。 (*^ ^*)/

ホケキョー

 

 

 

やっぱり歌曲ってすてき!

の。