年末年始休暇に入り、山へ入るのに絶好の季節にもなったので、以前気になっていた地元の山道を探索してみた。

三豊市の荘内半島は、付け根あたりの三野町の七宝山(豊中町にも七宝山がある)から始まり、加嶺峠を経由して高尾木山〜詫間越〜妙見山…紫雲出山…三崎灯台へと続きます。

途中の加嶺峠は比較的家から近い距離にあるのですが、一度も登ったことのない山でした。

そういうわけで、今日はチャレンジしてみようと。

 

まずは、県道231号線のうち詫間から仁尾へいく途中、本村上地区から神田(じんで)地区へ向かう丁字路を進んでいきます。

私が子供の頃は現在の県道231号線は無く、旧道の詫間越の道しかありませんでしたが、新道が出来て便利になりました。便利になったけど、車・トラック・爆音バイクの走行音などのよくない影響もあります…。

資料によりますと、私の知っている旧道の詫間越の道路も、明治・大正になって出来たようです。それまでは仁尾へ行くには歩行で山を越えていたのでしょうかねぇ…。

 

さて、丁字路を進むとすぐ”切り通し”になりその横に看板が。

田井下川水系 田井下川

 

とても川があるようには思えないのですが、反対側には犬尾池という溜池があるので、その川へ流れ込む小河川があるのでしょう。よく見るとこの部分だけ竹が刈られているので、道を横断してみてみると…

なにやら祠が。謎ですね。

ガードレールの向こう側にあるので今回は道から写真を撮っただけで、立ち去ります。

道の先はこんな感じです。

道が一部だけ狭くなっている部分がありますので、注意が必要です。

奥に見えるのは、左奥から弥谷山(天霧山かも)、左手前の毘沙古山、筆ノ山、我拝師山、中山、そして右が大麻山ですね。

この道をまっすぐ行くとまた河川の「土右流危険溪流」の看板が。

砂川水系 高尾戸川

右側の工事中の看板は、この上で砂防ダムの設置工事をしていることを表示しています。

ちなみに、上の写真の反対側は↓こんな感じです。

細い道の横に川があり、その流れはその先に見えている狩場池に注ぎます。この辺りの小字は「狩場」というみたいです。なぜそのような名前になったのかは不明ですが、狩場ということなので、古代はここらで獣を狩っていたのでしょう。知らんけど。

 

で先ほどのダム工事の看板の右側の道を上っていきます。

工事車両用に直線的にアスファルトが敷かれてますが、古い道は左側にチラッと見えているコンクリート道で、みかん畑に突き当たって右に折れてお墓の右側へと続いています。

お墓の右側道を進みます。

左に行く分岐がありますが、まっすぐ進みます。左へ行くと、ダム工事の場所へ行きます。

もちろん、ダム工事以前は、ただの山道だったのでしょう。

まっすぐ進むと左カーブになって十字路に着きます。

わかりづらいので、絵で描くと↓のようになります。

「広い道」というのは、先ほど道が一部細くなっているあの辺りです。つまり若干大回りしたような感じです。

十字路を左へ(高尾木山方面)行きたのですが、まっすぐ行くと何があるのか気になる。

なので「謎の道」へ行ってみました。しばらく歩くと、行き止まりでその先はえらく窪んだところだったので、河川跡かな?と思いました。

わかりづらいですが、右下側が私が立っている部分で、木の向こうは崖っぽくなっています。

心無い人が粗大ゴミを捨ててます。といっても、こんな場所地元の人しか知らないと思うんで…そういうことです。

ところで、先ほどの小さな祠のあった田井下川水系 田井下川の上流あたりがちょうどこの辺りのような気がしますので、この窪みはやはり河川の跡なのかもしれませんね。

 

先ほどの十字路へ戻って、高尾木山方面へ行きます。十字路には登山用の看板があるので誰も迷うことはないでしょう。

この辺りはまだコンクリート舗装されているので歩きやすいです。

猪捕獲ようのカゴ罠があったりしますが、その先に看板が見えます。

広場?に着いたのですが、右側になにやら祠が!

近づいてみると名もわからない祠でした。

私の持っている、昭和50年発行の「詫間町の文化財 ー第4集ー 町の神社・仏閣を訪ねて」には気になる以下のような一文があります。

 

狩場山の神祠(しんし)

田井上(たいかみ…このあたりの地名)鳴子峠の中腹にある。入会山の木材伐採の時、山の神前でお祭りをしていた。

 

マジっすか。やはりこの道が鳴子峠へ続くようです。

この広場のような場所でお祭りをしていたというわけですか。私の生まれるはるか昔の話でしょう。

 

さて、この広場から先へ進んでみます。

コンクリート舗装は先ほどの広場までで、広場からはただの山道であり、落ち葉がたくさんあって歩きづらい。下りは気をつけなければならない。

木が倒れかかったりしていますが、それを避けて先へ進みます。

お、峠か!?

登り切ると、そこにはお地蔵様がありました。

右側の道が登ってきた道です。

登ってきた道を直進すると仁尾町へ、左へ行くと高尾木山への登山道です。ですが、お地蔵様の奥も道?っぽくなっていたので行ってみました。

道というよりはただの尾根でしたが、結論としては何もありませんでした。

絵で描くと↓のようになります。

せっかくなので、高尾木山へ登る前に仁尾町側へ行ってみます。

ほぼ歩く人が居ないのか、かなり落ち葉があって歩きづらく、危険なところもあり。

↑これは道ですか?と言われても即答できません。

しばらく歩くと切り通しが見えてきました。

というか、やはり先ほどの危険な場所は道だった。(笑)

切り通しを越えると建物がありました。

この中にもお地蔵様がありました。右側へ行くと「詫間越」に繋がります。左側は畑?のような場所でした。

振り返って写真を撮るとこんな感じです。

左側が先ほど来た切り通しの道。では先ほどの地蔵へ戻ります。

戻ってきました。地蔵様の願主は”田井定吉”という人でした。

実は、この時点までは今日の目標この”峠越えの道”だったのですが、せっかくなので高尾木山へ登るかどうか10秒ほどめっちゃ悩んで登ってみることにしました。

 

上の写真でいうと、鋭角に右へ曲がり尾根づたいに登山道を登ります。親切にロープが張られているので迷いませんが、急勾配です。

途中、謎のコンクリート枡があります。

自分一人しかいないのに、「なんでやねん」と言ってしまいました。

さらに登っていくと水槽みたいなのもありました。

こんな場所でコンクリート打設するのは…ご苦労様です。おそらく、仁尾町側の、山の畑用の水源として造ったと思われますが、はっきりしたことはわかりません。

さらに登っていきます。

空が開けてきたので、お、頂上か!と思ったら、違いました。ただの尾根の途中のピークでした。

途中に勾配の緩やかなところもあったりします。

こういうところを歩くと、本当に尾根を歩いているんだなと感じますね。面白いです。

かなりの急勾配をあがると、今度は本当に山頂でした。

高尾木山山頂(274m)

わりと木を伐採してくれているので、眺望は良いです。↓仁尾町側です。

割と有名な父母ヶ浜(ちちぶがはま)海岸や大小の蔦島(つたじま)、観音寺市の伊吹島も見え、さらに奥の愛媛県の山も見えてますね。

 

逆側は詫間町です。本村地区、松本地区、天満地区、須田地区、新浜地区、塩生(はぶ)地区、高谷(こうや)地区です。

左下の池は蓮池、中央の山は塩生山(はぶのやま)とその先の高谷(こうや)

左中央は粟島の紫谷山(しきややま)、その右は高見島、その右下は志々島、右上は丸亀市の広島。

左上は佐柳島(さなぎしま)、右が小島(無人島)などです。

高見島の左はたぶん手島と小手島と思われます。

 

中央の塩生山の下の小さい森みたいなのが、詫間城址で、現在も”城山”とか”城下”とかいう名前が残っています。

城といっても、居館みたいな感じでしょうか。城主は詫間三郎という地元の豪族のようですが、詳しいことはわかっていないようです。詫間三郎という名が出てくるのは、南北朝時代に、敗れた後醍醐天皇が隠岐島に流罪になった時、皇子の宗良親王(むねながしんのう)(別名:尊澄法親王(そんちょうほうしんのう))も讃岐國へ流罪された。

岡山児島の下津井から詫間へ着いた時にオモテナシをしたのが詫間三郎だと言われています。

 

おっと、関係ない話を書いていまいましたが、下山は登ってきた道を下りました。

かなりの急勾配+落ち葉なのでロープを掴みながら後ろ向きに下りたり、木を持ったりしながら慎重になりました。木を触る場合は軍手などがあった方がいいですね。

もしかしたらヤマウルシやハゼノキがあるかもしれませんので。

(触るとかぶれるらしい)

 

というわけで高尾木山登山の日記でした。

今年の夏頃、本屋でヘレン・ミアーズ著「アメリカの鏡・日本(完全版)伊藤延司訳を買った。

実はその前に、三豊市詫間町にある波打八幡宮の宮司吉田成隆氏が書いた神道なくして日本は語れるか:神と共に歩んだ日本の歴史という本を読んでいたのですが、その本の中でお勧めされていたのがヘレン・ミアーズ氏の本でした。しかしこの本、文庫版ですが400ページ超え…。

本を買った夏は別の本を読んでいたので、父親に渡して先に読んでもらっていたのが、11月末頃に「読み終わった」といって返してくれたのでした。

 

著者の紹介をすると、ヘレン・ミアーズさんは戦後(大東亜戦争)GHQ関係の一人として日本にやってきた。実は戦前にも二度日本に来ている彼女は、三度目は違う仕事で日本に来ていたのでした。日本をよく知る彼女からGHQそして連合国のやっていることを見ると、われわれは果たして正しいことをやっているのかと疑問を感じるようになりました。

いわゆる東京裁判も、アメリカを含む連合国がそのような裁判をいていいのかと。

そのような事を、客観的に感情論を抜きにして記したのがこの本です。

私が驚いたのは、この本を書いた著者が”勝者”であるアメリカ人であることと、原著が書かれたのが昭和23年(1948年)だということ、そしてGHQによって発禁になっている事でした。いかに”勝者”にとって都合が悪かったかが窺い知れます。

 

戦後私たち日本人が習った歴史、特に第二次世界大戦に至るまでの経緯については、日本が軍国主義だったとか、アジアを侵略して酷い目にあわせたとか、パールハーバーで奇襲攻撃をしたとか。

著者がアメリカ人なので、本の中には「日本がアジアを侵略した」的なことは書かれていますが、欧米諸国はどうだったのかということも隠さずに書かれてあります。

 

一つだけ紹介すると、日本が当時朝鮮半島(本の中では”韓国”と書いています)を併合したことについて、やはりミアーズ氏は日本が朝鮮半島を「奴隷化」したと書いてありますが、しかし…

 

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一般に「進歩」の基準とされている、病院、学校、官庁(とくに現地行政機関)に占める韓国人の割合、通信施設の整備、産業化、資源開発などの分野でみると、日本の経営は他の植民地主義諸国に比べて劣っていなかったばかりか、むしろ優っていたといえる。

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当時の欧米も日本も、アジア諸国を近代化しようとしていたが、そのことを「進歩」と言っているのですが、そういうことに関しては我々(欧米諸国=植民地主義国)より日本はちゃんとやっていたと書いてあるわけです。

もちろん、日本もソ連の南下を止めるためという意味もあった朝鮮併合でしたが、インフラ整備や教育はきっちりやっていたと、アメリカ人が言っているのです。

 

こういうように、いま「普通」として受け止めていることも、実は違っていることを知らせてくれるのです。

私たちは何を習ってきたのでしょうか。戦後教育もGHQの影響を色濃く残していますが(日教組も労働組合もGHQが作らせた)、この本が発禁になったということは、現在の歴史教育は考え直さなければなりません。

そういう意味で、卓球女子の早田ひな選手は素晴らしい見識をお持ちでしたね。

 

ということで、この400ページ超えの本、年末年始に読んでみてはいかがでしょうか。

秋も深まり…というか、もう冬なのですが私どもの地域では紅葉は12月に入ってからが通例です。

世界に紹介されるような、例えば日光などの紅葉は色とりどりで美しいのですが、本州しかも北関東以北の地域とは樹木の種類が違うので、紅・黄・緑!みたいにはならないのです。

 

しかし、今年は私の感覚では例年より綺麗な気がしました。というわけで、12月の7日・8日に撮影した写真を載せることにします。

カメラは相変わらず、12年ほど使っているSONY α55で、レンズはSONY DT16-105mmです。ちなみに、カメラのセンサーサイズがAPS-Cなので、16-105mmレンズだと約24-157mmレンズになります。

 

場所は、7日は丸亀市飯山町の『飯山総合運動公園』です。

その前に、飯山町のJA産直売り場の『讃さん広場』の駐車場から飯野山。通称讃岐富士。

この日は昼から曇ると言うことでしたが、丁度12時過ぎに撮影した時はなんとか陽が差していました。

讃さん広場は、飯山図書館の斜め向かいにありまして、この辺りは飯山町西坂元ですが、西坂元が大字になります。たぶん。

小字は…高柳(たかやなぎ)か中代か山根でしょうか。農地ナビというwebサイトで調べたら「内板」という表示が出たのですがよくわかりません。ちなみの図書館の方はカタカナで「ガラク」と出ました。謎です。

 

この後、県道18号線を東(高松方面)へ向かいまして大束川を越えてJAの飯山の桃販売所を過ぎ一里塚交差点を過ぎクネッと曲がっている東坂元の交差点を鋭角に右折したらすぐに運動公園があります。

この飯山総合運動公園内には、実は古墳↓もあります。

城山古墳1号〜3号

右には埴輪のレプリカもありますね〜。一番下の古墳が1号で、説明板には↓こうあります。

 

城山(しろやま)1号墳

 北に延びる比較的ゆるやかな尾根の中央部に位

置する高さ約2m、東西12m、南北13mの楕円形

をした円墳で、幅2m、深さ50cm程の周溝を持つ。

 中央部から長さ約55cmの鉄剣や多数の鉄器片

が、先端を北から25度西へ向けた状態で並んで

出士したことから、主体部の主軸方位も同じであ

るとみられるが、規模は不明である。周溝からは

多数の円筒埴輪片や朝顔形埴輪の上部が出土した。

構築時期は、出土遺物の形態から5世紀後半ごろ

と考えられる。

              丸亀市教育委員会

 

この古墳の横から飯野山を撮影しました↓。

じつは東方向から飯野山を見ると形がちょっとイビツ。右奥の山は丸亀市・宇多津町の青ノ山です。(青ノ山山頂にも古墳があります。)

 

そして一番上の3号古墳から尾根づたいに南東にちょっと歩くと4号墳があり、そこは中世山城の「楠見城(くすみじょう)」があったと伝わります。

この楠見城の東には大きな楠見池がありまして、池を周回できるウォーキングコースもあります。

再び、1号墳付近から、今度は坂出市の城山(きやま)を撮影↓。こちらは”きやま”と読みます。ややこしくてすいません。

ちょっと雲が多くて映えないないのですが。

坂出市の城山は、こちらは古代山城があったようです。大和時代(天智天皇の頃)に朝鮮半島で白村江の戦(663年)に参加し百済と一緒に戦った大和朝廷だったが、結果は敗北した。

大和朝廷は

「やばいぞ。唐と新羅が攻めてくるかもしれない!西に城を作って備えたほうがいいのかな!?どっちなんだい!…パワーーー!」

と、対馬や福岡、長門などに朝鮮式古代山城を作らせた。

讃岐國には、メジャーな高松市の屋嶋城(やしまのき)とマイナーな坂出市の城山城(きやまのき)を作ったと言うことらしいです。

 

引きだと↓こんな感じです。

住宅街は飯山町東坂元の三谷地区ですかね。

この後は高松市まで行き、カメラのキタムラやハードオフでカメラの部品を探しに行ったのですが、目的のものがなくて帰りました。

α55のファインダーの周りにあるゴム部品?アイピースを紛失しまして、α55・α33のアイピースはよく外れるようで、Amazonにも無い。

今度、なんとかして自作するしかありません。

 

さて次の8日は三豊市内で撮影してみました。まずは豊中町の七宝山にある不動の滝カントリーパーク。以前も写真撮影しましたね。

この日は風がまあまああったので、被写体ブレに気をつけました。不動の滝はじつは水をポンプで汲み上げている人工の滝です。

滝と一緒に。

不動の滝カントリーパーク(岡本地区)の近くには以前も紹介した鳩八幡神社もあります。

さらに滝から南東方向の住宅街の中に城山寺(しろやまじ)がありまして、ここも中世山城の岡本城があった場所で、城跡にお寺ができたようです。

城主は西谷藤兵衞で、西谷藤兵衛は善通寺市の天霧城城主香川信景(のぶかげ)の末子だという。

 

天気は曇の多い日でしたが、赤い楓が綺麗でした。

岡本地区の南西に、財田川沿にあるうどん屋「かなくま餅 福田」がありまして、ここのうどんが大好きです。

”かなくま”というのは、お店がある場所が鹿隈(かなくま)という地名だからです。

お店の南西に鹿隈鑵子塚古墳もあります。

店名に「餅」とあるのですが、実は白餅、餡子入り、おはぎや草餅なども販売しているうどん屋です。

さらに稲荷寿司、三角形に型取りした赤飯や”海老おこわ”もあります。名物の餅入り雑煮うどんもメチャ美味しい。

雑煮うどんの餅は、餡入りか餡なしか二択できます。餡入りはちょっと…という人は餡なしでOK。

出汁(うどんのお汁)は冬季は白味噌になったりもしますよ。

 

うどんの話になると熱が入ってしまいました。

赤と黄緑色の美しい楓。

 

場所を三豊市の三野町、葛ノ山(くずのやま)の北麓から大見地区を撮影。

左から「黒戸山(くろとやま)」「弥谷山(いやだにさん)」「天霧山(あまぎりさん)」。中央は鳥坂峠。

そして「火上山(ひあげやま)」「中山(なかやま)」です。この写真では見えませんが、中山の奥に我拝師山(がはいしさん)があります。

弥谷山は、四国八十八ケ所巡りの弥谷寺がある山です。黒戸山と弥谷山は山麓は紅葉しているのに、上の方は常緑樹ばかりなのかツートンカラーみたいになっていますね。

ちなみに手前に写っているのは高瀬川。

 

というわけで、令和六年の紅葉だよりでした。