謹賀新年

 

一月三日のブログの二日後の五日(日曜日)、連休最後の日なので、家でゆっくりしようと思ったのですが、前回のミニ八十八ケ所の21番の石仏などの周辺の荒れが気になったので、今回も鎌を持ってもう一度行ってみることにしました。

今回もイラスト地図をもう一度掲載しますが、前回のは、21番の石仏を間違えて22番と書いてしまっていました。訂正します。

今回は、右側にある川の横にある”民家”の”民”の文字のあたりから川を遡るようにアプローチしてみます。

道から畑に入るコンクリート道が数メートルあるのですが、すぐ薮になってますが、なんとなく道っぽくなっています。

上の図の”民”のあたりから上がっていって、鎌で笹竹を刈りながら”王”の文字のあたりまで進んでみましたが、その先は孟宗竹か真竹みたいなのが生えていたので、鎌で刈るのは無理と考え断念。しかし周辺には畑のための石垣などがありました。

 

下の道へ戻り、前回と同じルートで21番石仏まで行き、周辺の不要な竹などをカットして落ち葉なども取り除きました。

↓一月三日(前回)の写真を再掲

↓一月五日(今回)の写真

前回は、夕方かつ日陰だったので暗くてよくわからなかった文字ですが、今回は午前中だったし周りに木があったとはいえ明るかった。

左の石仏はやはり、「毘沙門天」「脇師」「舎心山」でした。右の石仏の左側上は「アワ」と阿波をカタカナで刻んでありその下は「太龍寺」、真ん中は「虚空蔵」、右側は「四国廿一番」。

舎心山は、太龍寺のある山の名前のようです。毘沙門天の後ろの枯れた竹は、引き抜こうとしましたが、なかなか抜けず下手にグリグリやると石仏が倒れるといけないので、そのままにしました。

この石仏の前(私が立っている位置)は井戸跡ということらしいので、どけた土は石仏の横へ。

 

さて、21番もさっぱりしたので元の道にもどります。

(再掲)

竜王宮の12番へ向かう道へ左に斜めへ入って行きます。古い住宅地図では廃池の端からサオミ池へ向かう道が描かれているのですが、現地では全くそんな感じではなくただの斜面でした。なので木を掴みながら下へ降りていくと、確かに道っぽくなっている。山側はコンクリートブロックで擁壁してあり、逆側は過去畑だった名残のコンクリートの低い塀?壁?が残っている。

そのまま池の方へ行ってみたがもはや道ではなくなっていたのでここで断念。また元の道へ引き返す。

竜王宮へ戻ったところで、どうしようか考えたのですが、小学生の頃に2回だけ行ったことがあった、元々山の上の方にあった竜王宮は今どうなっているのか。確か小さな建物があって、蛇の抜け殻があったことは記憶しているが、はっきりとした道は憶えていないが、この道の上にある砂防ダムの左側を通っていくことと、途中で山の斜面から水が湧き出している小さな場所があったことは記憶している。

 

とういうわけで、砂防ダムへ行ってみる。実は二年ほど前、砂防ダムへは行ったことあったのですが、その時はダムの上流側を工事していてその先へ行くことはできませんでしたが、今回は工事は終わっているので行けるかもしれないと思っていた。

竜王宮からちょっと上がると砂防ダムが見えてくる。ちなみに写真の右側斜面にも2〜3の小規模な砂防ダムが作られている。大型重機も入れないような斜面にどうやってコンクリート打設したのか。

坂道を進むと砂防ダムへ突き当たるが、鋭角に折れて坂は続く。振り向いて撮影した写真。

この跡もう一度鋭角に折れて進むと、ダムの左側の堤に出る。

ちなみに下流側の景色は↓こんな感じです。左下のコンクリートが砂防ダム。詫間港や亀笠島や多度津の方が見えます。

山側はこっち。

あ、水が溜まっている。しかも変な色だ。二年前ほどにきた時は、この水は無くてユンボとかあったはずだ。砂防ダムの堤の幅が増設されているのがわかりますね。右側のグレーの部分が昔の堤で横の白い部分が付け足した部分ですな。

さて、昔の記憶では竜王宮へ行くにはこの場所からさらに登っていた記憶があります。左にある工事の為に作られた土の下り坂は、もちろん水の中へと続いているのですが、水際まで行って左斜面の上を見ると道のようなものが見えます。道といっても、舗装道路ではありません。

2〜3mなので登ってみたら、やはり山道が残っていました。意外です。もう山道など木が生い茂ってわからなくなっていると思っていたのに。

 

それでそのまま道のようなところを進んでみます。途中、笹竹などもありますが、その先に道が続いているようなので、鎌で刈り取って進んでいきます。

結局、この竜王宮へ行くには、砂防ダムへ注ぐ小さな川のほとりを登っていく感じでした。

これが道か?と問われたら、道ではありませんと答えるしかない。川に沿って登っていく。

さらに上とこんな感じですが、この上あたりに、例の水の出口?みたいなところもありました。

しかしこの先の急斜面は危険な気もしたので、やむなく断念。降りる時が危ない。

おそらくその先に旧竜王宮の建物が残っていると思われる。その場所は、妙見山の頂上に近いはずだ。

 

今度、もう一度チャレンジしてみようかな。と思った連休最終日でした。

令和七年 一月三日

謹賀新年です。

 

正月は恒例の”おだいっさん”(お大師さん=弘法大師=善通寺)へ初詣へ行き、近くの讃岐護国神社へも行き、護国神社の敷地内にある資料館(無料)でいろいろ観る。

陸上自衛隊:善通寺駐屯地は、大東亜戦争時は第11師団が編成されており、明治時代は乃木希典師団長がおられました。護国神社の横(敷地内?)には乃木神社もあります。

ちなみに、乃木大将は香川在住時、坂出市に夫妻で訪れたといいます。理由は、室町時代に坂出市であった”白峰合戦(細川清氏vs細川頼之)”に参加した細川頼之家臣の”乃木備前次郎”が討死し、その祠が坂出市林田町にある『白峯合戦古戦場(三十六)』というところにありまして、そこへ弔いに来たということです。

 

それはさておき、一月三日は地元のミニ八十八ヶ所巡りの探索のために裏の山を徘徊。以前から目星はついていました。12番の焼山寺(しょうさんじ)が山の中にあるようなのですが、昔の住宅地図(昭和57年版)に描かれてある小道を辿ればどこかにあるだろうと。

 

地元の竜王宮(りゅうごんさん)へ上がる道に、竜王宮のすぐ近くから左へ山へ降りていく小道がありまして、そこを辿っていくと廃池の横を通りちょっと進むと石の祠があります。

この石の祠はミニ八十八ケ所とは違うものでして、ここまでは昨年発見していたのですが、この道から先に12番があるだろうと。ただこの道の先はかなりの藪になっていて、もはや道とは言えない感じでした。

この石の祠の場所は山の尾根でして、住宅地図ではこの尾根を上がっていく道が描かれているのを思い出し、上がってみようと10秒くらい歩いたら12番がありました。

尾根の登り坂にある第十二番札所 焼山寺(しょうざんじ)。

拡大すると↓こんなんです。

右:十二番

中:虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)

左:阿波 焼山寺

下段:長尾佐講中

長尾佐(なごさ)はこの辺りの地名(小字)

 

字が読みづらいのですが、上はなんとか如来と刻んであります。下段は”真○正五○”みたいな。

場所は↓の感じです。

▲二重線と実線は道、破線は道があるらしい、青線は川です。

川といっても、小さい川ですよ。

 

竜王宮(りゅうごんさん)は砂防ダムの遥か上にあったお宮を、2000年代にこの場所に降ろしてきました。

竜王宮の横にはミニ八十八ヶ所の17〜20番がありまして、おそらく山の上に点在していたものをこの場所へ移動させたのでしょう。

先ほど見つけた12番の次の13番・14番はサオミ池の横にある荒神宮内にあり、そこから少しの距離をおいて15番、さらに上に登って16番と続き、竜王宮の17番と繋がります。

22番は右の川の図が切れている辺りにありますが、21番がどこにあるのか不明でした。

 

以前、山本祐三氏の『詫間町の山城(西讃の山城 第1巻)』に三野塁址の項を読んでいた時、この21番のことがヒョコっと出てきました。

この辺りの小字は城場(じょうば)といいますが、字が示すとおり何かしらの城に関する何かがあったことを連想させます。この辺りに城(居館または詰め城)のようなものがあったのが想像され、そしてこの城址に後世の人が忘れないようにミニ八十八ヶ所の場所に選んだのでしょう。本の中には21番の写真もあるので確実にあるようですが、場所も描かれていますが、現地に行くと竹が生い茂って全く見えません。

しかし今日はせっかく12番も見つけたので、21番も見つけよう!と思ってダメ元でさがしました。

竜王宮の上の畑の畦道をとおり右の川の方へ行き川の反対側を見てみますが、竹が生い茂って全く見えません。そこから川伝いに10mほど行くと川に架かるコンクリート橋が見えました。(人が一人通れるちっちゃい橋です)

持っていた鎌で細い笹竹を刈ながら橋を渡りさらに笹竹を刈りながら進むと下に石が見えてきたので、あ!本に書いていた石畳か!?と思ったのですが、ふと左を向くとミニ八十八ヶ所21番がありました!なぜかビニールのようなものが…。わりと大きな石が散乱していたので、猪が掘り返したのかもしれません。

夕方5時前でかなり暗かったので、カメラの内蔵フラッシュを使って撮影しました。

本のには、石仏の前が”井戸跡”と書かれています。確かに窪んでいる気もする。

あと、石畳がある場所は、写真の右上のあたりから左上方向に登っていくようです。

石仏を正面から見ると↓こんな感じです。

フラッシュなしで手持ちで撮影してみました。

右:四国廿二番

中央:虚空蔵…

左:…太龍寺

太龍寺の本尊は虚空蔵菩薩で、12番の焼山寺と同じですね。

左側の石仏は、上に横書きで「毘沙門天」、左側に「…師」と刻んでいます。

 

石仏を通り越して、石畳のある部分を見上げてみましたが↓のようでした。

地面には落ち葉と土で石畳などはまったく見えませんね。ただ正面奥に石垣っぽいものがあるような気もします。今度は午前中に行ってみなければなりませんね。

上の写真の位置から石仏を撮影すると↓のようになります。

しかし、竹は厄介な植物ですね。もちろん、ちゃんと管理すれば利用価値のある植物なのですが、放置するとすごい密集してどんどん増えますからね。

最後に、21番の場所を上の地図に追加してみました。

ちなみに、川の名前は、昭和55年度版『詫間町の文化財 ー第9集ー 地名のはなし(下巻)』には古城川と書かれています。

2024年も今日で終わりですが大晦日ということで、登山に行ってきました。

昨日も高尾木山に登ったやん。

貧乏なので旅行など行けるはずもないので、お金のかからない登山は最適のレジャーです。

しかも家から歩いて行ける距離です。今日登った松峯山は、詫間町と三野町の間にある登りやすい低山(115m)です。

 

いつもウォーキングなどをするときは、音楽やニュースをiPod nanoで聴くために、SONYのワイヤレスヘッドセットFlort Runを使っているのですが、今日は家を出発する前にそれが見当たらない。昨日の高尾木山に登って、下ったときも使っていたのですが家に近づいた時に外して鞄に入れていたのです。

もしかして落としたのかな〜?と思いながら、まずは昨日の逆ルートを辿ってみることにしてみました。

近くの犬尾池の堤とかにも無かったし、隣の又池の周辺にも無かった。その又池から、本村上〜神田地区への道へ上がる細い道があるのですが、そこに落ちていました。

よかった〜、電源を入れたらあっさり使えたので一安心しました。

 

というわけで、昨日と同じ道を今度は神田地区まで進み、丁字路に突き当たりそこから右へ(上方向)進みます。まっすぐ行けば消防署のある加嶺峠へ行くのですが、途中にある丁字路を曲がり、たくま荘(老人ホーム)方向へ歩いていきます。老人ホームを過ぎると右側に池が見え、前方には松峯山が見えます。

見てください、のこ悲惨な姿。木を切って太陽光パネルを設置し、エコだ環境は大切だと言うのです。これほどの欺瞞はありませんよね。それをメディアもあまり報道しないし、政府や官庁は良いことだと応援し補助金を出したりします。

結局は銭儲けですよね。メガソーラー・小規模ソーラー・家の屋根にも太陽光パネルを設置してますが、だいたいそう言う人たちの会話は「どれだけ儲かったの?」とか「電気代安くなるの?」などであり「どれだけCO₂削減したの?」などの会話は聞こえてきませんね。

 

おっと、脱炭素政策に対する不満が出てしまいました。このまま道をまっすぐ進みますと交差点にでますので直進します。するとすぐ低い峠みたいな道になりそれを越えると三野町の大原地区に入ります。

松峯山登山用の看板があるので入り口はわかると思います。

コンクリート道を進むと、大原(おおばら)地区の自治会館があり、その横が登山道です。

▲黒い建物が自治会館。その手前が登山道入り口です。

 

トラクターの右を上がっていきます。結構な急勾配です。

この辺りは花や桜を植えたりして地元の人たちが整備されてますね。

ちょっと登って振り返り写真をとったものが↓コレです。

大原地区を含む吉津地域は、「津」という字の如く高瀬川の水や、満潮時の海水が入り込む湿地帯だったといいます。

高瀬川の河口の石川橋の横に水門がありますが、水門がなかったら満潮時は海水がかなり上流、三野町の本門寺あたりまでは湿地帯だったと思います。陸地だった場所には神社やお寺があるので、だいたい想像がつきますね。

さて前へ進んで2分〜3分で巨石がゴロゴロしてきます。

この巨石を通り過ぎると視界が開けてきます。

完全に岩盤が露出しています。建物は峠を越えたところにある工場です。

さらに登っていきます。あ!頂上かと思ったら、昨日と同じでただの尾根のピークの一部でした。

さらに進んでいくとやっと頂上!

と思ったら、第一のピークでした。最初の写真では↓のような感じです。

そういうわけで、その先に尾根伝いにまだ道がありました。

今日は天気はまあまあでしたが、風が強かったですね。せもこの尾根の道は樹木がわりと低いので、見晴らしは素晴らしくいいですね。

1分か2分程度で第二のピークに着きます。

岩の上からは周りの景色がよく見えます。さらに上長へと向かいますが、途中で詫間町側の側面に例のアレが見えます。

酷いでしょコレ。こんなのアリですか!?パネルの下の方はもう影にかかってますし。

そしてついに頂上に!(今度はホンマ)

詫間町側の景色は↓こんな感じです。

昨日も高尾木山に登ったので、昨日の写真の島々と同じなのがありますが、

高尾木山よりは低い山なので見え方はやはりそれなりのアングルですね。

3分ほど景色を楽しんでから元きた道を戻っていきます。

よく開けた尾根伝いの道です。

途中三野町側の景色は↓こんな感じです。

吉津小学校のあるところは実は昔山(寺山という名らしい)だったところで、採石のために削られ、その後に小学校用地に転用したということです。

ちなみにこの山の左側あたりまでが、湿地帯だったと思われます。

詫間町の松崎方面は↓こんな感じです。

手前に見える尾根、松峯山は山頂から尾根が北方向と東方向に伸びており、北尾根の詫間側には例の太陽光パネルがあります。東尾根は太陽光パネルはありませんが、東尾根の麓は採石のために山が削られてます。

 

(もう一度写真を掲載します)

▲山頂の左側の北尾根側にも太陽光パネルがびっしりと

 

というわけで、松峯山登山日記でした。