友人から「愛は信じられるか?」と聞かれたが、僕は、解答出来なかった。


その友人は、「愛なんて信じられない。初めは愛し合っていた夫婦が、時間が経過して愛が冷めて別れた。誓い合った愛はどこへ行ったのか?」と続けて言った。彼の親の事を指して言ってるのだ。

実は、僕の親にも言える事なのだ。
夢も希望もない話になってしまった……………

愛が絶対的なもので、信じれば「永遠の愛」になるのか?

信じれば救われるのか?愛は永遠なのか?僕にはわからない。

人間の心は、常に変化し、永遠だとか、絶対的に変化しないとか想定する方が難しい。

愛し合っていた心も変化して崩壊する事もあるだろう。その崩壊を阻止する方法はいくらでもあるだろうが、それは当事者が考えること。

前置きが長くなったが、並木教授(故人)と言う人が、相手には誠意をもって尽くすが、相手が裏切っても気にしない。っていう趣旨の事を言ってるのを思い出した。

人間は絶対的なものではなくて、裏切ったりする場合がある。相手を信じ過ぎたり、相手に尽くして、その見返りを期待して、見返りが無かったり、期待し過ぎて、かえって人間の心が不安定になったり、疑心暗鬼を産んでしまうのだと言う。

並木教授は、見返りは期待せず、すべては天に任せるのだと言う。僕は、神や天に任せるとか言う思想は無いが、並木教授のように、相手を過信したり、信じすぎたり、見返りを期待してしまうと、自分自身の心が不安定になったりして、しまうのではないかと思ったりする。

だから、夢も希望もない、冷たい言い方になってしまうが、相手には過度な期待や、永遠、絶対的な、何かを(例えば愛)信じてしまうのは、その人の心に負担をかけてしまったり、自分自身の心に負担がかかったりしてしまうと思う。

人間は、相手を裏切っていい訳がないが、現実の世界は違う。

並木教授は、相手に特に期待しなくても、相手が誠を示してくれた時は、その時こそ、素直に心から喜びをかみしめればいいと言う趣旨の話をしていた。

初めから期待もせずに、相手には誠実に対応し、冷静に天に任せる。そして、相手が裏切っても、初めから期待していないのだから、サッと受け流す。逆に、相手から、よき真心を受けられたら、それは素直に喜ぶ。そう言う姿勢でも、いいのではないかと思ったりする。

愛は等価交換では無いはず。見返りを初めから期待するところに、何か計算が働いてしまう。
最近、どこかの国のリーダーが、どこかの国のリーダーに言ったセリフが「私を信じてください」だったとのニュース。


外交で使うセリフとして、果たしてどうなのか?疑問に思ってしまったけど、このセリフ、日常生活でも、意外に乱用されている言葉である。


僕は宗教が嫌いと言ってるけど、このセリフも嫌いなところがある。このセリフを聴くと、何か無責任な響きがしてならないのだ。

世の中は、様々な信用で成り立っているのは理解はしているけど、わざわざ、「私を信じてください」とか、「信用してください」とか言わなくちゃならないのは、やっぱり、その人の信用や能力が足りない部分を、セリフで無理に補強しようとしているのが明らかで、逆に、相手に、「あなたを信じています」とか、「信用しています」とか、わざわざ言わなくてはならないのは、相手の能力に疑問を持っているとか、相手を牽制して、逃げ道を塞ごうとか、本当は相手を信じる気持ちは低いが、自分に言い聞かせるようにして、「あなたを信じる」とか言ってしまうケースも多いと思う。

一方的に「あなたを信じています」とか言われて、少しでも満足でない結果になると、「あなたを信じていたのに裏切られた」とか言われしまうのは、本当に納得が行かない。


「あなたを信じている」「あなたにお任せします」とか言うセリフは、ある意味、他力本願、無責任な姿勢に感じてしまう。


相手を信じていても、現実の世界は、約束が破られたり、それこそ、満足が行く結果にならない事はたくさんある。


僕は、相手に、あなたを信じるとか言うセリフは言わない。相手から、「オレ(私)を信じて欲しい」とか言われると、思わず考え込んでしまう。


「じゃあ信じて、期待通りにならなかったら責任はとるの?」って、聞き返したい気分になってしまう。そんな事ばっかり言ってると、それこそ夢も希望もない世界になってしまうが………

僕の方から、「自分を信じてください」とは、ほとんど絶対に言わない。安易に使う言葉ではないはず。

相手が安易に期待を持たせたくないのだ。


信じてくださいなんて、それこそ宗教の勧誘みたいなセリフに感じてしまう僕は、他人に、そうしたセリフはどうしても言う気分にはなれない。

信用とは、日頃からの実績の積み重ねであり、それをわざわざ口に出して言わなければならない事は避けたい。

こうしたセリフは、慎重に使って欲しいと思う。
親から離れて、やっと宗教の重苦しさから解放されたと思ったのもつかの間、やっぱり世の中甘くない。


独り暮らしを始めて、日曜日に家に繰り返し女性集団で訪問するキリスト教徒の勧誘に出くわした。

何かとニュースで話題になってる宗教団体だ。

社会人になれば、職場で執拗に宗教団体に入るように勧誘する人間に出会ったり、近所のおばさんが、執拗に新興宗教に入れと言って、それを断ると、陰湿な嫌がらせをされてしまう経験もした。


こうした経験は、僕だけじゃあなくて、このブログを読んでる人たちの中にも、経験した人たちがいると思う


本当に、宗教の勧誘は執拗で、うっとうしい。


勧誘を断ると嫌がらせはするし、「死後、神の裁きを受けて必ず地獄に行く」「仏罰があたる」「病気や事故にあったり不幸になる」とか言って、宗教をやらないと、こうした発言をして圧力をかけるのだ。


しかし、普通の人間ならまだしも、宗教を信じていない人間に、神や仏からの罰が下るとか、地獄に行くとか、不幸になるとか言われても、全く、脅しの材料にもならない。


だいたい、脅迫されて宗教に入ったら、あとは、それこそ脱会するか死ぬまで、神や仏、教祖や幹部の指示、命令に少しでも背けば、常に、地獄に落ちるだの、不幸になる、罰が下るとか言われ続けるのが明らかだ。

そんな宗教生活は絶対にしたくない。宗教が好きで好きでたまらない人間なら、別に宗教生活を思う存分やっていればいいと思うが、宗教が嫌いな人間に、執拗に勧誘するのはやめて欲しいと思うが、そんな他人の迷惑も考えずに執拗に勧誘するのが、信者なのだろうか。


自分の親が宗教に走って、おかしくなった姿を見て、自分は宗教はやらないと決めた。これが間違っているとは、とても思えない。


宗教の勧誘に異常なまでに熱心な、近所のおばさんや、職場の人間、取引先のおじさん達の、何かに取り憑かれた目つきを見ていると、本当に宗教は怖いと思ってしまう。


宗教に熱心なるが故に、何かを見失ってしまっているのではないかと思ってしまう。


人に宗教を押し付けない信者の場合は、別に構わないが、布教活動に熱心な信者には、絶対に関わりたくないと思ってしまうが、上司、顧客、取引先、近所に、そうした信者がいると、本当に頭が痛い問題となってしまう。

友人や知人に、宗教に暴走してしまっている人間が居ないだけでも、僕はまだ「幸せ」なのかも知れない。