ネットで『戦術的敗北』と検索すると、戦術的に敗北すると言う意味の内容が出てくる。

当たり前ですね。

僕はこの言葉を密かに多用してしまってる。

個別の戦術での敗北は、むしろ進んでやるべきで、本当は戦略的勝利を獲得すればいいと思っている。

『革命的敗北主義』とはニュアンスが異なってくるように思う。

わざと個別の戦術で敗北をして、逆に勝利への流れを作ってしまう。

くだらなさそうな小さな戦術的勝利を、得意気につかんでしまい、かえって戦略的に敗北を招いてしまうのは、大変な不都合だからである。


わざと負けて、戦ってる相手と妥協して時間を稼ぎ、体勢を立て直す。そして、最後には戦術的勝利を獲得する。


人生負けるが勝ち、逃げるが勝ち、とか言う人が僕の大先輩に居たが、要は、戦術的敗北で戦略的勝利を目指せと言うことだろう。


相場の世界でも勝負の世界でも、小さな戦術的勝利に構っていては、大きな負けにつながってしまう。

野球だって、わざわざ満塁策をとって、強い打者には小さな勝利を(フォアボール)与えて投手と勝負させない。弱い打者は投手が勝負して投手が勝つ。三振に打ち取って、ゲームセットする。


小さな戦術的敗北は、戦略的勝利へのコストと割り切る必要がある。


人生や日常生活では、本当に戦術的敗北をしなければならない場面が多い。


小さな戦術的勝利にこだわってしまうと、戦略的勝利にはつながらない。


僕の最近の生活は、戦術的敗北。最近は特に多用してしまってる日々である。


小さな戦術的勝利が欲しい人間には、大いに譲ってあげたい。一歩後退二歩前進。くだらなさそうな場面での小さな勝利は、無駄なエネルギーの費やしに過ぎない。

より大きな勝利のために、小さな犠牲もいとわない。

もちろん、小さな戦術的敗北が、ドミノ倒しのようになってはいけないけど。


今月も、もう終わりですね。あっと言う間に過ぎて行きます。

ところで、写真を見てください。

今月初めに、あるターミナルの駅前のショッピングモールのお店の写真です。

このお店、貼り紙がしてあって、閉店を告知する内容です。

ところが、よく貼り紙を見ると、当初予定通り、28年1ヶ月で閉店になったと書いてあるのです。

店の名前も281。28年で閉店しようと初めから計画していたのでしょうか?

店主に確認したいくらいですが、閉店してしまった今では、確認も出来ません。


この貼り紙を見たときは、びっくりすると同時に、1ヶ月が過ぎ去るのが早い、などと言っては、人生の計画なんか立てられないと反省した。

人生はあっと言う間に過ぎ去るものなのだろう。

とても28年後の未来像を計画する展望はないが、せめて、5年後、10年後の計画を立てる必要があるんだろうと思った。

計画も立てずに、毎日、テキトーに生きていたり、毎日の忙しさに流されてしまっては、自分がどこに行きたいのか?どんな自分になりたいのか?全くわからないままに、テキトーに生きてしまうのだろう。

気ままに生きて行く人生もいいかも知れないが、ちゃんと計画を立てる生き方も選択肢の一つかも知れない。


それにしても28年後に閉店を計画を立てて、見事に自主廃業とは驚きだった。
norickracingさんのブログ-100110_1834~01.jpg



norickracingさんのブログ-100110_1833~030001.jpg

ちなみに、このブログは基本的にグルメ、レシピブログではありません!(笑)

ところで、毎年、この時期になると、大根を煮たモノを見るとき、思わず連想してしまう事があります。

子供の頃に見た日本昔話のシーンです。タイトルがわからずに来ましたが、最近、ネットで『大根、庄屋、雪、盗み』で検索すると、『あとかくしの雪』と言うキーワードが出てきます。

この子供の頃に見た日本昔話は、あとかくしの雪だったのです。YouTubeでもアップされています。

この、あとかくしの雪のストーリーは、凶作に見舞われた村に、飢餓の旅人が訪れ、見るに見かねた村人が、庄屋の畑から大根を盗み、旅人に大根を煮たモノを提供してしまう物語です。

盗品だと知らぬ旅人が食した大根、後に旅人は、庄屋の畑から盗まれた大根と知って、とても驚いてしまうのです。しかも、畑から、村人の家まで足跡あしがくっきり残ってしまい、村人が庄屋から罪人として訴えられるのは明らかでした。


意地の悪い庄屋は、飢餓の旅人に大根を食わせないばかりか、大根を盗まれていないか見回りを欠かせない人でした。

その畑から大根が盗まれて、しかも、足跡がくっきり残っている。

もう庄屋も黙っている訳がありません。

ところが、それから数時間後には、大雪が降り、足跡が消えてしまったと言う物語です。

この物語、教育上、教科書に載せられませんが、絵本は出版されたり、この物語をキリスト教会や寺で、信仰の問題として問い掛けるテーマにしているところもあるようです。


いくら空腹だから、餓死寸前だからと言って、大根を盗む事をしなかった旅人を見て、見るに見かねた村人が大根を盗み、旅人に出どころを黙って提供した物語です。

また、餓死寸前の旅人に、大根を盗んだら承知しないとキツく警告した庄屋の人格も問われています。

この物語が問い掛ける内容は、かなり重いものです。

僕は冬に大根を煮たモノを見ると、この物語を思い出してしまいます。


あとかくしの雪は、本当に暗い話です。盗みをしてしまったお婆さんが、窃盗の裁きを受けなかったからと言って、本当に幸せだったのか?と言えば、そうとは言えない。お婆さんにも葛藤があっただろうと思います。

盗みをして困っている人に施しをするのではなくて、施しを出来る能力が充分にある人が、困っている人を、出来る範囲で支えていくようになったら、まだ救いがあるように感じます。