他人の批評を得意げにする人間がいる。
そんな批評を、人前で話をする人間を見ていると、とっても気分が悪いものだ。
とにかく何かにつけて、他人の批評をしなければ気が済まない性格の持ち主がいる。
先日、ラジオを聴いていたら、醜い国会の生放送があった。いい歳した人間が、自らの過去の疑惑を棚に上げて、相手を糾弾する審議をやっていた。
まるで自らは、清廉潔白の正義に満ち溢れているかのような演出に、それこそ、『お前が言うな!』って言いたくもなった。
清廉潔白で正義感に溢れた人間は、本当に、倫理や道徳に欠けた人間を糾弾するのだろうか?
僕は宗教は嫌いだが、キリストや仏陀は、性格に問題や欠陥を抱えた人間を、公衆の面前で糾弾したり、罵倒したりするのだろうか?
大抵、他人の性格や倫理観、道徳観を公然と批評、罵倒する人間も、ほとんど例外なく、その人間にも人間性に問題があると思ってしまう。
天下に於いて、堂々と悪党を糾弾するとか、裁判所で検察官が被告人を罵倒するのとは、訳が違うのだ。
世の中には、毒舌で、次々にバッサリと、他人の批評をしまくって斬りまくる人間がいるが、本当に見苦しいものだ。
でも、そうした見苦しい人間を、僕は罵倒しようとは思わない。むしろ、僕にとっては大切な先生なのだ。
先生は自らを犠牲にして、本当に正しい生きる道を教えてくれる。先生自らが人間性を犠牲して、模範を示すところに、尊い価値があるのだと思ってしまう。
まさに先生は自爆して行く。僕は、それを尊い犠牲者として見ている。
僕の尊敬する某教授は、『その人間の人間性や業績を批評する以上は、自分の程度や次元も問われ、一歩間違えば汗顔ものだ』とか言っていたが、まさにその通りであって、そうやすやすと他人の批評など出来ないし、批評する以上は、自らも問われる覚悟が無ければ、あの醜い国会中継の姿になってしまう。
そんな批評を、人前で話をする人間を見ていると、とっても気分が悪いものだ。
とにかく何かにつけて、他人の批評をしなければ気が済まない性格の持ち主がいる。
先日、ラジオを聴いていたら、醜い国会の生放送があった。いい歳した人間が、自らの過去の疑惑を棚に上げて、相手を糾弾する審議をやっていた。
まるで自らは、清廉潔白の正義に満ち溢れているかのような演出に、それこそ、『お前が言うな!』って言いたくもなった。
清廉潔白で正義感に溢れた人間は、本当に、倫理や道徳に欠けた人間を糾弾するのだろうか?
僕は宗教は嫌いだが、キリストや仏陀は、性格に問題や欠陥を抱えた人間を、公衆の面前で糾弾したり、罵倒したりするのだろうか?
大抵、他人の性格や倫理観、道徳観を公然と批評、罵倒する人間も、ほとんど例外なく、その人間にも人間性に問題があると思ってしまう。
天下に於いて、堂々と悪党を糾弾するとか、裁判所で検察官が被告人を罵倒するのとは、訳が違うのだ。
世の中には、毒舌で、次々にバッサリと、他人の批評をしまくって斬りまくる人間がいるが、本当に見苦しいものだ。
でも、そうした見苦しい人間を、僕は罵倒しようとは思わない。むしろ、僕にとっては大切な先生なのだ。
先生は自らを犠牲にして、本当に正しい生きる道を教えてくれる。先生自らが人間性を犠牲して、模範を示すところに、尊い価値があるのだと思ってしまう。
まさに先生は自爆して行く。僕は、それを尊い犠牲者として見ている。
僕の尊敬する某教授は、『その人間の人間性や業績を批評する以上は、自分の程度や次元も問われ、一歩間違えば汗顔ものだ』とか言っていたが、まさにその通りであって、そうやすやすと他人の批評など出来ないし、批評する以上は、自らも問われる覚悟が無ければ、あの醜い国会中継の姿になってしまう。