ある傲慢男が、突如として組織ナンバーワンの地位を手に入れようとしていた6月のある日、ナンバー2の事務所に電話を何度もかけたそうだ。

ナンバー2は大幹部の事務所である。

夜中に何度も電話をかけまくったそうだ。

夜中には、留守番の事務員しかおらず、この傲慢男は、記者会見を開き、「代表幹事の事務所には何度も電話をかけたが、先方の都合で、出て頂けなかった」と言い放った。


自宅ならまだしも、真夜中に何度も事務所に電話をかけまくって、一体、誰が電話に出れるのだろうか?

まさに、この傲慢男はアリバイ工作をしていたのだ。

この傲慢男、世間や組織の内部から、圧倒的な人気があったようで、有頂天になっていた。つい昔は、独りでしょんぼり、四国を巡礼していた年金未納男と同じ人物とも思えなかった。

この傲慢男、叩き上げの元刑事に対しても、数々の恩を仇で返すかのように約束を実質的に反故にした。

元刑事の男は泣きながら復讐を誓ったと伝えられている。

大幹部と元刑事を敵に回した傲慢男、しかし、元々、無能だったためか?すぐに無能さを世間に露呈してしまった。

何しろリーダーでありながら、毎回言うことがコロコロ変わり、やがて組織の内外から信用を無くす。

そして、7月のある日曜日に、ついに信任投票で歴史的大敗北を喫したのだ。

この傲慢男、せっかく手に入れた地位を失いかけている。

この傲慢男は、再び、大幹部の事務所に電話をかけまくっていると言うのである(笑)

今度は真夜中ではなくて、真っ昼間だと言うから(笑)

真っ昼間だから、事務所に大幹部はいるのだろう。

しかし、大幹部は電話に出ようともしない。

大幹部からも見放されて、この傲慢男は相当に神経をすり減らしていると伝えられている。

しかし、それは自業自得ではないだろか?

大幹部や元刑事が嫌いだからと言って、失礼な対応をすれば、やがてそれが、ボデーブローのように効き、自分が危機になったら、逆に攻められてしまうのである。

例え嫌いな相手であっても、失礼な対応は控えるのが、自分自身のためである。

この傲慢男、9月にはおそらく相当に辛い状況になって、再び、四国巡礼の旅に出るのであろうか?

久しぶりにブログを書こうと思った。ブログを書く気分にさせないくらい、この世の中の不幸な出来事やニュース……

そんな事が山のように重なると、ブログも書く気分にもならない。

ところで、自分の趣味の一つが散歩なのですが、計画的に予定を立てて散歩する場合もあれば、その日の気分で、勝手に散歩する場合もあります。

先日、仕事が終わって帰宅する途中、ちょっと遠回りして、寄り道散歩した。

駅前に新しい【古本屋】がオープンしているのを発見、ちょっと覗いてみた。

そこで、思わぬ本を見つけ出して、ソッコーで買った。定価が2500円だったものが、105円で売っていたのだから、安く買えて良かった。

ところで、この本は当然値段がついていたが、その値段は、交換価値を示すもので、必ずしも、本の内容の価値を示しているものではない。

Wikipediaでは使用価値や交換価値などが記載されているので、詳しくはそっち任せるが、ベストセラーになっている本の交換価値は、果たして本当に使用価値と比較してどうなっているのだろうかと、頭をよぎった。


世間で話題になっている本より、古本屋で捨て値同然にされた105円の交換価値で出された本を手に取り、そこから如何にして、最大限の情報価値を引き出して、使用価値を示すか?問われているのだと思う。

話は飛ぶが、、、

例えば、2500円の交換価値のあるシューズを手に入れて、そこから最大限の使用価値を引き出したなら、2500円のシューズは立派に役割を果たしたのだと思う。

逆にせっかく買っても、全く使わないなら、そのシューズの使用価値はゼロ以下になる。

物を買う時は、交換価値と使用価値の比較を、買う人間自身がしっかりやらないと、無駄な買い物になってしまう事を戒めたい。

無駄な買い物は、家計に負担をかけるばかりではなく、地球環境にも負担をかける行為に等しい。

無駄な買い物でも景気が良くなる等と、ケインズ理論を吐けば、やがて、それが悪性のインフレへの導火線にもなりかねない。

世の中は甘くない。使用価値を無視した買い物は、必ず、負担をかける。もちろん、あなたが金持ちなら話は別だけど。

この前、ラジオを聴いていたら、鳩山のおじさんが、『学校の先生は聖職者だから、しっかりして欲しい、児童、生徒から尊敬されるようにして欲しい』とかと言う発言が流れていた。

今どき、学校の先生を『聖職者』なんて思ってる児童や生徒はいるのだろうかって、思わずツッコミを入れてしまったのだけど………

児童や生徒が、学校の先生を聖職者と思い込むのは自由だけど、僕が児童や生徒だった時は、聖職者だなんて思った事は一度もない。少なくとも、小学校高学年以降は、思った事は無いし、聖職者であるべきだなんて考えた事もない。


クラスで中高生にもなると、学校に一人や二人くらいは、先生より頭がいいとか、すごく立派な性格を持った生徒はいた。


そんな生徒を見ていると、学校の先生が聖職者とはとても思えなかったし、自分の経験だけで言わせてもらうと、聖職者どころか、人間として最低レベルの性格を持った先生も、少なからずいた。

そうした最低レベルの先生に対して、裏でクラスメートは嘲笑していたものだった。

中身の無い先生に限って、暴力(体罰)や威張りちらしで権威を示してはいたが、何しろ中身の無い先生だから、生徒達は、表向きは先生に従うけど、裏では罵倒の連続だった。

むしろ、生徒達から尊敬されていたのは、権威を振りかざす事もしない、謙虚で真面目で、常に生徒の事を考えていた先生だった。


先生を聖職者だと思い込むのは自由だけど、権威や暴力を振りかざす事より、先生だって一人の人間であり、間違いだってある、生徒から逆に教えられる事もあると言う先生の方が、尊敬できるし、卒業しても、いつまでも生徒達の心に残るのではないかと思う。

『教師聖職者論』と言うキーワードをネットで検索してみてください。

僕は先生を聖職者だと思いたくは無いし、聖職者だと言う態度で接するような先生とは、心の中では接したくもない。


全国に百万人以上いる先生が、我が物顔で聖職者だと威張りちらすような真似だけはやめて欲しい。

尊敬されたかったから、生徒の心をつかむ先生になって欲しい。