「少女を埋める」について、論争が起きているとのこと。
詳しくは、
を読んでみてください。
ごくごくかいつまんでいうと、
・桜庭一樹氏の小説『少女を埋める』は私小説である。
・小説の中には、読者が「介護者による要介護者への虐待があった」と読み取っても不思議はない、むしろそう読み取るのが自然な描写が散見される。
・評論家が小説を読み、評論文の中で「家父長制社会で夫の看護を独り背負った母は「怒りの発作」を抱え、夫を虐待した。弱弱介護の密室での出来事だ」と書いた。
・著者は「事実と全く異なる内容が拡散され、家族に実害がある」と撤回を要求した。
私はこの作者の小説は『私の男』『砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』『GOSICK -ゴシック-』の3冊を読みました。
私をよく知ってる人なら、
「え?あんたの好みと全然ちゃうやん。むしろ嫌いなタイプの小説やん」
というでしょう。
誰かを理解したいと思うとき、その人が絶賛している本を読んでみるのはセオリーじゃないですか(笑)
特に、芸能人だとか、スポーツ選手だとか、手の届かないような人ならば、その人が読んでる本を読んでみるのは有効です。
だから、読み終わった後、すっごく疲れましたけどね(^^ゞ
人間観察は、いろいろな角度から対象を見つめなければ歪んじゃいます。
真正面からだけ観ていては、その人の本質はつかめない。
でもこの作者は、変な角度からだけ見て、「これが本質」と提示してる気がしたんです。
真正面からの視点がないように思った。
だけど、普通の人が見てない視点からの小説だから「本質をえぐっている」なんて論評をする人もいたりなんかしちゃう。
違うよ。
こんなの本質じゃない。
普通の人が見ていない影に光を当てているだけ。
この作者は、普通の人がみている明るい光を見てはいないように、少なくとも私には思えました。
そういうのが好きな人もいるんだと思うし、それは否定しない。
でも、どんなものでも、正面からの視点が欠けちゃうと、おかしくなる。
「読者には誤読の自由がある」と喝破したのは天才筒井康隆ですが、著者が発信したいメッセージを、なるべくそのままに受け取ろうと努力するのが読者の誠意であるとは思います。
本を読む、芝居を見る、音楽を聴く。
畢竟すべての「芸術」には作者からのメッセージがあります。と、敢えて断言します(そんな鑑賞の仕方して楽しいん?って聞かれたこともありますし、テーマを受け止めるのでない楽しみ方があることも否定しないから)。
ゲーテやモーツァルトなど、偉大なる芸術家に研究者がいるのは、作者が発したテーマを正確に読み取るのがそれだけ難しいからでしょう。
学者同士が論争になるときもあるくらいなんだから。
「作者である自分が意図した読み方以外は許さない」っていうなら、商業出版に載せない方がいいと思うなぁ。
ごく個人的感想ですが。
しかしまぁ、表現って本当に難しいです。
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