小学生の頃、教科書で習って以来、聖徳太子が好きです。
当時の1万円札の肖像画は聖徳太子でした。
聖徳太子は、誰もがその名を知る、日本古代史最大級の偉人です。
哲学者梅原猛さんの著書 『隠された十字架 』や宮大工棟梁の西岡常一さんの『木のいのち 木のこころ』、漫画家の山岸凉子さんの『日出処の天子』等を読んで聖徳太子がますます好きになっていきました。
しかし、近年、「聖徳太子は存在しなかった」という説も唱えられています。
最近の教科書では「厩戸王(聖徳太子)」とカッコつきの表記に変わってきています。
「聖徳太子」の研究は、聖徳太子自体が、信仰の対象であり、史料の記述も信仰と実際の事績が混在しているため、歴史的な「謎」につつまれた部分が多いのも事実です。
しかし、それでも、実在する人物であってほしいという強い願いをこめて、聖徳太子が好きです。
以下は、聖徳太子の一生です。
574年 用明天皇の皇子として生まれる。母は蘇我一族。
*太子の妻は、蘇我馬子の娘である刀自古郎女(とじ
このいらつめ)
593年 20歳の時、推古天皇の摂政となる。
*蘇我馬子とともに、政治を動かす。
604年 十七条の憲法を定める。30歳
607年 遣隋使を送る。小野妹子。法隆寺を建てる。34歳
621年 聖徳太子亡くなる
聖徳太子の死後、
626年 蘇我馬子亡くなる
628年 推古天皇亡くなる
643年 聖徳太子の皇子、山背大兄王(やましろのおおえのお
う)を蘇我氏(蝦夷・入鹿)が攻め、一族すべて首を
つって自害。聖徳太子一族ほろびる。
太子が定めた十七条の憲法は私の座右の銘です。
一、和をもって貴(たっと)しとなし、いさかうことなきを宗(むね)とせよ。人みな、党(たむら)あり。また、さとれる者少なし。これをもって、あるいは、君父にしたがわず。また、隣里(りんり)に違(たが)う。しかれども、上(かみ)和(やわ)らぎ、下(しも)むつびて、事をあげつらうにかないぬる時には、すなわち、ことわり自ずから通(かよ)う。何事かならざらん。
「人の和を大切にしなさい。いさかうことをやめなさい。上の者が和(なご)やかで、下の者と仲よく親しみ、そうしたおだやかな空気の中で、意見を言い合えば、すべてのことがうまくいくだろう」
607年、太子は小野妹子を使いにして隋の二代目皇帝煬帝(ようだい)に国書を送りました。
「日出づるところの天子(天皇)、書を、日没するところの天子にいたす(送る)。つつがなきや(無事であるか)・・・・・・」
つまり、太子は中国との対等外交を求めたのです。
当時は、中国中心の世の中です。倭人の倭は、したがうという意味です。
国書は、中国を中心とする冊封(さくほう)体制からの脱却宣言でもあります。
わが国ではじめて、天皇という名称が登場したのもこの時です。
聖徳太子は偉大です。
以下は聖徳太子にまつわる伝説です。
・生後4ヶ月の時、言葉を話した
・2歳の時、手を合わせて、南無仏(なんぶつ)と、唱えた
・7歳の時、お経数百巻を読んだ
・同時に10人の話を聞いて、一人一人に正しい答えを返した。
・亡くなる日、「今夜、私は、あの世へ行く」と言った。
・空と飛ぶ馬に乗って移動した。
あくまで伝説です。