後悔しない生き方ついて考えてみることに。
とりあえず考える前の結論を先に言うと、考えるから後悔するんだと思う。
だから考えても後悔しないように選択して行動することが後悔しない生き方なのかもしれない。
今回のサッカーのW杯で日本は決勝トーナメントに進出したものの、その試合内容については国内外で賛否両論ある。
よく言われているのが、あのまま点を取りに行って負けたら、それはそれで批判されるだろうと。
これはなんとなく矛盾しているように感じる。
批判されることを恐れて決断したわけではなく、むしろ圧倒的に批判されることは承知の上での判断だったと思う。
メディアの伝える批判やタレントの扱う批判というものの捉え方に世間とのギャップを感じるのだ。
おそらく、国民や大衆からの批判に晒される側の立場として監督の判断を擁護したくなるのもわかる。
結果が全てだと。
確かに西野監督は結果を残している。
Jリーグでの勝利した試合数は監督としてトップだと。
その圧倒的な結果から人々は何か勝利の哲学のようなものを学ぼうとする。
なぜなら誰もがそれぞれの環境で何かしらの決断を迫られる場面に遭遇することになるからだ。
今回の件もその結果が今後の日本人が決断をする場面でのひとつの指針にもなると思う。
サッカー村だけの話ではない。
売上至上主義のような非情さが今後も通用するのかは誰もわからない。
テクノロジーの進化によってビデオ判定が瞬時に導入されることにより、選手個人の演出力は極めて滑稽なものとして記憶にも記録としても刻まれることになる。
勝者が歴史を作る時代がテクノロジーによって変革している時代の最中でもある。
最終的には次世代が歴史を作ることになる。
記憶は美化されるが、記録は風化しない時代になった。
僕の個人的な意見としては、メディアや解説者が未熟だったと思う。
イエローカードの差で勝つことも必要になってくることを情報として戦略的に先にほのめかすような演出が必要だったのではないかと。
フェアプレーの差で勝敗が決まるという名目の中で、法の隙間を突くような合法的な遅延行為が身内として恥ずかしいのだ。
試合後に会場でゴミ拾いをしているサポーターに対しても罵声が浴びせられることも想像できる。
国際大会なのだから同じ国民として恥ずかしい行為は避けて欲しいと願うのが、和の精神だと思う。
監督の立場としては責任を背負うことになる決断だが、サッカー協会としては有力な外国人選手を帰化させて日本代表として強化することは試合に勝ったとしても人気商売としては難しいことにもなる。
そこに人種差別などの批判が集まったり、戦争の代理行為だとか言い出す者が出てくると話の論点はずれてくる。
なんというか、試合に負けても日本人としてのキャラクターを守った方が、国益としてはサッカーの勝利よりも上になる。
一番卑怯で汚っねえ商人の国だということをあんまバレたくないのである。
これから先は外国人労働者に頼るしかない国になるのだから外国人の足下を見るような戦略では破綻する。
結果が全てという発言は勝者も敗者も使えるが、応援する側の感情を置き去りにするようなエンターテイメントは演出として時代に追い付いていなかったと思う。
コロンビアのダイナミックな反則のおかげで勝利してスタートした大会だっただけに、最後に姑息な反則スレスレみたいな日本の勝ち方は単純に見ていてダサかった。
このような最終局面を想定して、イエローカードを貰ってはいけないという監督や選手の視点を試合の初めから視聴者に与えて、それも込みで試合を楽しむべきだったと。
他ジャンルのエンタメもそのようなメタ的な要素も込みで楽しむ傾向になっているのだから、解説者も日本代表であるべきだった。
試合の序盤からDFのパス回しが遅いと解説者は何度もしつこく自分の解説力を示すかのように指摘をしていたが、それが終盤になると会場からのブーイングに負けてはダメだと時間潰しのパス回しを肯定するような発言をしていた。
この感情の変化の気持ち悪さが後味の悪さにもなったと思う。
松木節のような個のある実況や解説があってこそ反則でもラッキーに変換できる巧みさだと感じる。
そもそもフジテレビが試合を9時からみたいな詐欺番宣をやっている時点で視聴者はイライラしていた。
全てはフジテレビが悪いのである。
視聴者の感覚にダイレクトに合わせに行くのが下手なのだ。
勝つか引き分けの煽り一辺倒ではなく、イエローカードの差も絡んでくるから選手はイエローカードを貰ってもいけないという情報を見せ方としては先に欲しかった。
ただ、小柳ルミ子の器用は良かったと思う。
熟女に興味がなかった僕でもこれがなぜか可愛く見えるのだ。
完全にメッシに恋をしているわけだが、恋する女とはこんなにも可愛く見えるのかと女子力って半端ないと思った。
GK川島の活躍がなにより嬉しい。
o(^o^)o