テレビの面白さ | 天狗と河童の妖怪漫才

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妖怪芸人「天狗と河童」の会話を覗いてみて下さい。
笑える下ネタ満載……の筈です。

“めちゃイケ”と“とんねるずのみなさんのおかげでした”が終了するみたいですね。



やっとテレビが復活するなと職場の休憩中に久しぶりにテレビの話題で盛り上がって、肌感覚でその兆しを感じていたこのタイミングで、フジテレビはなぜこの決断をしたのかわかりませんね。



あとは東芝がサザエさんのスポンサーをやめるとか。



これを“サザエさん”という作品に対して東芝が広告費を払う効果がないから辞めたと、スポンサーだから東芝のが賢くて偉いみたいな勘違いしてるやつ何なの?



東芝だけに限らず上の世代がやった不正だとか、作り出したルールのツケを俺達30代が背負わされてる形なわけよ。



広告と作品とコンプライアンスと批判を好き勝手に脳内編集してその全てを“ネット”を合言葉のような言い訳にしてるだけなのよ。



ネットが炎上してるってよく言うけど、実感としての温度なんか職場で話題になるかどうかでしかないんだから、そんなもんほとんど誰も何も感じてないからね。



“みんな”って言葉を“ネット”に置き換えてるだけでしょ。



20代を必死に働いてきたらテレビを見ている暇なんかほんとないんだよね。



テレビの全盛期を見てた世代がみんな働いてんだから視聴率とかが悪いのは仕方ないよ。



最近になって仕事の全体像だとかを何となく覚えてきて、やっと少しくらいの余裕だとか、視界が広がってきたわけでね。



テレビの何が面白かったのか、何が面白いのかを知ってる世代がようやくこれからあらゆるジャンルで動き始めるタイミングなわけよ。



上の世代のやり方に反論するには説得力としての時間的な拘束期間から解放されるタイミングを待たないといけない。



コンプライアンスを気にしてるスポンサーが不正をしてるわけで、というか、テレビでCMを流すことがリスクになる空気をテレビが作り出してるわけだ。



スポンサーもコンプライアンスも世代が変わればもう1周するからね。



視聴者が帰るべき場所がテレビから消えていくのはもったいない。



テレビ番組という共通言語や待ち合わせ場所のような空間が存在しないと面白くない。



高視聴率だとされるイッテQは素直に面白いと思う。



編集のアイディアを学ぶ教材としても機能しているわけで、視聴率がいいのも納得できる。



で、テレビや芸人が面白くない理由を、視聴率が悪い理由を、コンプライアンスを言い訳にするのが視聴者としては本音の食い違いで何も面白くないのだ。



視聴者に対するコンプライアンスなのか、広告料を得る目的の為のコンプライアンスなのか、どっちなのか?



スポンサーが好きにやって構わないというなら、面白いことをやると思う。



イッテQのスポンサーにはゼネコンがいる。



そのゼネコンを現場で支えている僕らのような末端の作業員はコンプライアンスの意味すらよくしらない。



というか、国からの仕事を請け負うような実績のある大企業としては、お茶の間に広告としてのスポンサーの効果はないと思う。



別の目的だと思う。



話は変わるが、建設業界が抱えている異常な数字には笑えるものがある。



職人が建物を作っているわけだけど、その職人たちの年齢層とは、50才以上の職人がなんと建設業界で働く全体の8割になるのだ。



いぶし銀の匠なパワハラを堪能できる快適な職場でもある。



我々のような現場の人間はテレビにコンプライアンスなんか誰一人も求めてなどいないのだ。



つーか、テレビが面白ければパワハラも少なくなるんだよ。



休憩時間に「昨日のアレ見たか!?」で、みんながゲラゲラ笑ってれば過酷な環境でも人間は生きていけるんだよ。



イジメに繋がるとかじゃなくて、イジメを回避する為のスキルとしての“返し”をテレビや芸人が教えてくれるわけだ。



親がテレビを観て笑ってるだけで子供たちだってハッピーになれるだろ。



子供の教育は親がやればいいんだよ。



親は笑ってればいいんだよ。



俺の母親も子供の頃に、たけし軍団の笑いは好きじゃないって言ってたけど、それも親子の会話で教育だからさ。



転んでる人を見て笑う人もいるし、自分が転ぶことで学ぶこともある。



転んだ人が頭から血を流してたら笑えないってだけで、それでも人間は助け合って生きていくもんだからさ。



頭から血を流してる人を見ても何も動けない人間を育てても生きてはいけないでしょ。



テレビのバラエティーを批判するよりYouTubeとか見させる方がよっぽど危険だとは思う。



テレビはプロが作ってるわけだからさ。



ネットは規制や制約がないから面白いってのは、ちょっと違うと思う。



ナスDの顔が白くなった回の放送を僕は見逃してたんですよ。



江戸っ子に焼き鳥屋さんに誘われてたんでね。



何が凄いって、みんなそれまでナスDの活躍を各自のアンテナに引っ掛かって見てたけど、職場では一切話題にはなってなかったのよ。



テレビの話題はあっても北朝鮮の核ミサイルか災害のニュースくらいしかなかったわけ。



それがだよ、放送された直後の職場の話題というか、開口一番で「ナスDの顔が白くなった!!」だもん。



もう黙ってらんねえみたいな熱量で喋るわけ。



みんなあの番組見てたのかよ!っていう懐かしい共感はあるんだけど、俺だけはその回を見逃してるわけ。



この面白さを共有できない悔しさなんて何年ぶりに味わったかな?



中学時代の深夜番組でいうと、とぶくすりとガハハキングみたいなもんだよ。



教室の面白いやつよりも、イケてるやつらが面白さを先取りしてるわけよ。



自分の部屋にテレビがあるやつとか、深夜番組を見せてくれる家のやつらしかその面白さを共感できなかった時代ね。



その感覚が今はネットなのよ。



自分だけが楽しむ番組ならネットでいいけど、会話として楽しむにはテレビなんだよね。



少なくともガテン系の職場ではそうだよ。



久しぶりに何の番組を見てるとか、今はこれが面白いっていうテレビが話題の中心に来たわけだよ。



全員が笑えるわけ。



ネットのなかった時代だと深夜番組を録画予約するのも感覚的にはタブーだったからさ。



当時は深夜にエロ番組もやってたからね。



今はエロもネットで無料だもんね。



ナスDについて過去の放送もみんな言わないだけで実は見てて知ってるのに、だからそれは確認作業なんだけど、みんな俺に喋らせてくれ俺に喋らせてくれってグイグイ喋るわけよ。



なぜなら見た記憶の思い出話を喋るだけで、みんながゲラゲラ笑えるからなのよ。



あれもあったこれもあったっていう会話のボルテージが加速していく感覚ね。



おっさん連中がみんな勃起してるような感じで興奮してるわけさ。



だから普通のサラリーマン向けの番組はいらないから、ガテン系TVという番組をやったらスポンサーからのクレームはないよね。



スポンサーはゼネコンとかリース会社とか工具や資材メーカーだけで固めりゃいいよ。



好き勝手にやっていいから日本中の職人たちが腹を抱えて笑える番組を作ってくれと。



女子供は見なくていい。



何らかの刺激を求めてるわけだから、ガチ感がないと面白くないわけですよ。



めちゃイケの終了を決めるのなら、それこそdボタンの集計で決めるべきだと思うからね。



長寿番組の終了というものをテレビがテレビの広告に使うアイディアがないわけでさ。



うちの母方の婆ちゃんは爺ちゃんが死んでから10年以上もずっと独りで暮らしてたけど、婆ちゃんが亡くなる直前まで楽しみにしてたのは、さんまのからくりテレビを観ることだったからね。



笑いってのは孤独でも生きる希望そのものになるからね。



これからのテレビに期待したい。