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母の日になにかあげる?ブログネタ:母の日になにかあげる? 参加中




何もしませんね。



僕は35歳で独身ですから親に心配や迷惑を掛けても親孝行をしたことはありません。



母の日に母との思い出に浸るくらいしかできません。



僕がこんなダメ人間なので、母親も普通ではないんですよ。



うちの母親は中卒だったんですね。



家が貧乏で3姉妹の長女だったから中学を出てすぐに働いたそうです。



刺繍の仕事をしていたそうで、そういう意味では僕と同じ職人だった訳です。



僕はガテン系ですけどね。



それで母親は最終的には独立して刺繍の仕事をやってたそうです。



それで何年か前に僕の給料明細を見て「なに!?それだけしか貰ってないの!?」と叫びましたからね。



同じ職人として稼ぎだけで判断するんですよ。



この叫びにはいくら母親といえども軽く殺意を覚えましたけど…。



母親はタイプでいうと学級委員長タイプなんですね。



小学校の時とかPTAとかをガンガンやるんですよ。



息子が学年で一番の問題児なのに関係ないんですね。



その時のPTA役員をやってた他の母親の息子は東大に行きましたからね。



母親は僕をその子と同じ塾に通わせようとしたんですけど、入塾試験みたいのがあって僕は門前払いを食らいましたからね(笑)



勉強したいから通うのに、もちろん学費も払うのに、その塾にすら入れてもらえないというバカでした。



そういえば、小学生の時に母親が刺繍を入れた作品を見たことがあります。



学校の体育館にはステージがあると思いますけど、そこに大きな幕がありますよね。



その幕に「満月満月市立満月満月小学校」って金色の糸で刺繍を入れたのがうちの母親だったんですね。



満月年度卒業生贈呈みたいなのも確か書いてあったと思います。



たぶんPTAで贈呈品の話になって、幕に決まって、刺繍の件になって、その金額を浮かそうと、しゃしゃり出たんでしょう。



母方の祖母の葬儀の時に母親の刺繍の師匠である社長からその時に相談された話を聞いたことがありました。



うちの母親は頑固なので、社長が金にならないならやめるように言っても聞かないからと、在庫の糸を持っていくように渡したと。



タダで糸を貰いにいくその辺りはズル賢いなと。


自分の卒業した小学校の体育館に母親の作品があるって変な感じですよ。


兄貴も親父も同じ小学校の卒業生ですけど、そんな輝かしい爪痕は残してないですからね。



僕はまぁ、友達と3人で学校を脱走して全ての先生や校長から教育委員会にまで迷惑をかける大騒ぎを起こした問題児だったのでね。



たぶん、そういうバカが出た時の対策マニュアルとしては爪痕というか、貢献をしていると思います。



そんな問題児だった僕に担任の女の先生は困っていたのでしょう。



先生がうちの母親に「満月満月君がどれだけひどいか1度授業を見に来て下さい」と言ったそうです。



普通に考えれば嫌味なんでしょうけどね。



それで、うちの母親は学校に来たんですよ。



僕にも学校にもアポなしで、1人授業参観ですからね。



隣の席の女の子からは小声で「なんで満月満月ん家のお母さん来てるの?」と聞かれて僕も知らないとしか言えませんでした。



それで授業中は一番後ろで先生が用意したパイプ椅子に座って何かをメモしていました。



だいぶ後になって母親から聞いた話によると、その時に担任の先生から「何を書いてたんですか?書いてたメモを見せてください」と言われたと。



もちろん断ったという。



おそらくメモは、先生に対する心理的なハッタリだとは思うけど、そういう負けん気の強さがあるんですよ。



プライドが高いというかね。



趣味も幅広いのよ。



母親は本家の長男である親父の家に嫁いで来たので、うちの祖父母が農業を辞めてからは専業主婦だったので暇な時間があったんでしょうね。



ガキの頃はよくあちこち連れ回されました。



ジャズダンスを習っていた時もありました。



運動音痴なのは子供から見てもわかりましたけどね。



親の趣味についていくと、そこに集まる子供にもコミュニティが出来ますからね。



ジャズダンスを習う母親たちが連れてきた子供達の輪に入ったり、図書館で絵本の読み聞かせや人形劇のボランティアをしてる母親の連れてきた子供たちの輪に入ったりと、とにかく僕は母親にも振り回されてたんでしょうね。



親父と喧嘩して僕だけ母親と母親の実家に暫くの間、里帰りしたこともありましたね。



冬の海に母親と二人だけで海岸を散歩するだけの為に電車で行ったこともありました。



今思うと真冬の海で無理心中する親子の絵でしかない。



昔から短歌が趣味で、短歌の会には東京まで泊まりで出掛けますからね。


だから、そういう風情があるようなことにも手を出すんですよ。



そして何より中卒というコンプレックスが許せなかったんでしょう。



僕が高校に入学した時に、うちの母親は定時制の高校に入学しましたからね。



だから学校は違いましたけど、僕と母親は同級生なんですよ。



何がムカつくって偏差値では母親の定時制の学校の方が上でしたからね。



それで僕は帰宅部だったのに対して母親は卓球部に入るんですよ。



卓球台まで買うんですよ。



それで定時制の高校の卓球部にもインターハイがあって、うちの母親はその団体戦で日本一になるというね。



たまたま卓球の上手い女の子が揃ってたからで、そんな偶然も重なって補欠部員だったババアが卓球の雑誌に賞状持って写ってましたからね。



僕よりも青春を謳歌してどうするんだと。




それだけ高校生活にずっと憧れてたんでしょうけど。



そうなると、わかりますよね?



はい。



高校を卒業すると、通信制の大学に通いました。



ちなみに僕は高卒で就職しましたからね。



大学で何を学ぶのかは聞いても理解はできませんでした。



何やら最先端の脳科学だか心理学だか意味はわかりませんでした。



僕も少しは大人になってから母親がなぜその分野を学ぼうとしたか理解できました。



僕には同い年の従姉妹がいるんですけど、小学生に入ってからずっと不登校になってたんですね。



登校拒否とか話題になる少し前ですかね。



で、その従姉妹は思春期になると家で暴れたりとかして、手をつけれない状態だったみたいでね。



うちの母親は自分の息子が問題児なのもあるし、同い年だけど口は出さずに傍観してたのよ。



うちの母親は僕が子供の頃から世界平和だとか、寝る前には頭を撫でながら「世の為、人の為になる人間になるんだよ」と何度も聞かされてうんざりしてたんですよ。



それなのに従姉妹の不登校には何もしないでほっといた訳でね。



綺麗事を言うなよと。



さすがに従姉妹とはいえ同い年の女の子ですから、僕ですら就職するのに、社会人にもなれずにこのまま引きこもるのはヤバイよと母親に言ったことはありました。



それで決心した訳ではないでしょうけど、暴れる従姉妹の家に母親が乗り込んで行ったそうです。



暴れ狂う従姉妹を怒鳴りつけて布団でぐるぐる巻きにして車に乗せてカウンセリングに連れて行ったとか。



それから従姉妹は精神病院に入院することになりました。



そして、様々な検査の結果、従姉妹の不登校の原因は脳の発達障害であることが判明しました。



その診察の結果により、従姉妹は障害者年金の受給を得られるようになりました。



そして社会復帰を目指した施設で共同生活を開始したのです。



それらの手配や医師との話し合いを母親がやっていたと。



つまり、うちの母親は綺麗事ではなくて、自分で最先端の脳科学や心理学を大学で学んで、苦しむ従姉妹を何とかしようと全力で行動していたんですね。



卒業まであと少しのところで親戚の介護や祖父の死が続いて諦めることになりました。



僕が母親孝行できたことを思い出しました。



その時、母は泣きながら「ありがとう」と両手を握って何度も僕に頭を下げていました。



それは、母親と兄貴と僕の三人で、母の母親である僕にとってお婆ちゃんを自宅で看取った直後のことでした。



祖母が危篤だとの知らせを受けて田舎に帰ったものの、戦禍を潜り抜けた世代は医師の宣告した余命よりも生命力に溢れた為に、「自宅で死にたい」と言う最後の願いを叶えることが祖母と母の望みであり、それは同時に兄と僕の願いになり、そのまま仕事を休んで祖母との時間を過ごしました。



母は兄と僕に「ありがとう」とだけ言いました。



親父だけ真面目に仕事に行ってました。



それから母は悲しむ暇もなく長女として葬儀や手続きに奔走していました。



葬儀が一段落して、東京に戻る支度を終えた僕を見送る兄や母を前にして、親父が今回の兄と僕が祖母を看病した件について総括をしました。



親父は言いました。



「まあ、あのぅ……仕事を休んでやるってのは、…ちょっと、やり過ぎだったよな?(笑)」



しーん。



からの



母「最低!!」
兄「最低!!」
僕「最低!!」



からの



家族「(笑)」



どんなことがあろうと最後に笑える家庭を家族を人間を育ててくれた母に感謝したいと思いました。