友達の価値観2 | 天狗と河童の妖怪漫才

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妖怪芸人「天狗と河童」の会話を覗いてみて下さい。
笑える下ネタ満載……の筈です。

友達がお笑い好きではないことは理解した。



それはつまり、お笑い思考ではなく自分の感性のままに生きてきたことになる。



だとすると、見たものや聞いたものの全てを鵜呑みにして誤解するか、または間違った裏読みをしている可能性もある。



曖昧な表現に対して結論を急いだり、自分の尺度で決め付けることが習慣になっていると思う。



お笑いの何が素晴らしいかと言えば、何かに対して自分の中で考えに考えて悩みに悩んで出した答えだったとしても、それら全てを一撃でひっくり返すだけの答えが他に必ずあるという救いだと思う。



嘘→曖昧→本音という3段階の感情や表現だとしても、お笑い思考には本音という軸が背後にあるからこそ嘘だとしても最後まで安心して期待することができるのだ。



友達がテレビを見ていてビートたけしの発言にツッコミを入れていたのは笑えなかった。



「たけしクラスで内偵が2週間なわけないでしょ(笑)」



いや、今の流れでツッコミはそこじゃないだろと。



笑うところと突っ込むところがズレているのである。



友達としては普段からアウトレイジな世界で生きてきたから、そういう連中と北野映画に対して実際とは違うことにツッコミを入れてヘラヘラと笑うみたいな内輪な楽しみ方があるのかもしれないけどね。



ただね、お笑い芸人から映画監督までやって世界的に評価されてる時点で、その圧倒的な才能と天才の頭脳からすればそんな些細なことは全て計算済みな訳でさ。



足りない余白を補って笑うことが粋ってもんであってね。



つまり、友達の知識で余白を補うのならば、内偵する側がたったの2週間で“諦めた”というオチにもなる。



このように笑いの強度を増して解釈するのがお笑い思考なのだ。



それを内偵が2週間だったなんてそんなのは嘘だとか、作り話だと思うことが野暮であり、お笑いの見方をわかっていないのである。



そもそも笑うところはそこじゃないからね。



北野映画の暴力描写だって、それはお笑いだってことも含んでいる。



不良とはつまり、どれだけ悪いことができるか?という大喜利で競う世界と同じなのだ。



その歯止めが利かなくなると、それがやがて、どれだけ残酷なことができるか?どれだけ残忍で無慈悲なことができるか?という大喜利的な発想に対して悪の世界ではそれが評価されることになる。



しかし、不良にしろテロリストにしろ、その程度の悪いことは誰だって考えられるよと、お笑いだって同じだよと、更に上を行く暴力的な新しい表現をぶつけて悪の評価すら破壊するのだ。



神戸の事件の少年Aに対して爆笑問題の太田光は、お前の美意識はダサいと吐き捨てた。



笑いの対極にあるものが恐怖だとしても、それすら笑いという表現に内包されていると。



つまり、お笑い思考というのはとどのつまり合法的なドラッグのようなものである。



友達の美意識が危ういのはそのような悪い表現をする男に惚れるということだろう。



友達が言うにはギャップに惚れるというのだ。



めちゃくちゃ悪い人なのに、そんな人が良いことをしているのを見るとそのギャップに惚れると。



お前はバカなのか?と。



友達にはそういうところが多々あるので一緒にテレビを見るのが嫌なのだ。



友達とテレビを見てたら、まんが日本昔話のDVDが発売中だというCMが流れていたことがあった。



友達は「わぁ~懐かしー、子供の頃、見てたー」と言った。



嘘つけ!!と。



お前の道徳教育には微塵も含まれてないだろと。



ただ、友達は天然なのでそれもわからなくはない。



友達の感性では、隣の家の意地悪じいさんに罰が当たる結末が可哀想だと感じるのだ。



ダメな男に肩入れする傾向があるのだ。



つまり、俺も友達からすると可哀想なダメ人間…



まぁ友達は人間として根っこの部分が恐ろしいくらいに優しいのだ。



しかし、その優しさではこの残酷な世界で幸せになどなれる訳がない。



友達とテレビを見ていたらミシュランガイドに掲載されたラーメン屋に密着取材したのがやっていた。



そこに弟子入りした40過ぎの男が店内での仕事ではなく毎日店の外で行列の整理を担当していた。



そのことを店長である社長に愚痴る場面を見て友達は可哀想だと言った。


俺はその同情する意味がわからなかった。



優しさを履き違えてるとすら思った。



友達は「だって2年も毎日毎日、店の外で行列の整理をやってるんだよ!」と。



いや、それも立派な仕事だろと。



というか、ラーメン屋にしろ飲食の仕事に来る人間はその看板とレシピが欲しいに決まってる。



40過ぎなら開店資金はあるだろうから店のノウハウだけ欲しいのは働いてる男なら誰でもわかる。



まともな弟子ならそれを覚悟して、味よりも先に人間性を磨くだろう。



ミシュランにラーメン屋としては世界初だという。



それならば行列の出来る店の行列に対して自分が世界初となるサービスや気配りはないかと発想することが正解なのだ。



目の前のただの行列としか、客ではなく金としか見ていないからこそ愚痴るのだ。



それを本人が自覚していないから店内にはとても入れられないのだ。



そんな男にのれん分けしても店の看板に傷がつく。



友達の優しさはダメな男を更にダメにすることにもなる。



まぁ友達は自分みたいな人間には子育ては出来ないからと、結婚する前から旦那にパイプカットさせて子供を望まない決断をさせてるからその考えが悪いとは俺は言えない。



もしかしたら友達は自分の感性が世界に受け入れられないことを経験から自覚しているのかもしれない。



だからこそ、その遺伝子を残そうとはせず、自分1人だけで世界から消えようとしている。



友達は過去に6人と交際したが金を騙し取られたり、浮気されたりと、最終的には極道の嫁になってしまった。



5年付き合った彼氏とは結婚式を目前にして束縛や子育てに不安になって別れたという。



俺が思うに、その彼氏が束縛したのも友達の場合は天然だからで、それを本人はわからないのだろう。



友達は漫画を読まないと言った。



漫画の読み方がわからないと。



俺らの世代で女子が漫画を読むってのは、りぼんとかなかよしみたいなやつだろうか?



それよりも、歴代の彼氏たちが漫画を読まなかったというのだろうか?



漫画から得る知識や教養は計り知れないものがある。



男の子なら少年ジャンプの努力友情勝利を学ぶことになる。



友達から聞く子供時代の話はいじめられていたことと、学校を早退して習い事をしていた記憶しかないと。



俺と友達との会話にお笑いと漫画はないのよ。



ようするに俺は両翼もげた状態で喋ってるわけよ。



もちろん友達はアニメなんかも見ないからね。



同い年なのにセーラームーンでギリなのよ。



金魚注意報とかわからんのよ。



ギョピちゃんとか、焼きそばパンとか伝わらなかったのよ。



音楽も俺らの世代ならビジュアル系ど真ん中世代だけどそんな話にもならないのよ。



映画の話をした時もグリーンマイルを見て泣いたって言うからマジか!?と。


しかもあの電気椅子のシーンだと言うからね。



まぁそれは別にいいかと。



その流れでショーシャンクの空にとかの話になるかと思ったら知らないと。



俺が思ったのは、友達は無理して背伸びしてまでサブカル知識を欲しがらないのだなと。



ただ、それはそれで世界に対する新鮮味が半端ないだろうなと思う。



逆に言うと免疫力がなさ過ぎるかもしれない。



バカな男や悪い男の言う言葉を真に受けて裏切られて傷付いて、それは漫画や映画の世界ではなく自分で体験して学習してきたのかもしれない。



だからこそ、綺麗事だと言えたのだろう。



だけど、俺のは帰ってきた綺麗事なのだ。



このウルトラマン的なニュアンスも友達には当然ながら伝わらないけどね。



俺の経験からすると、中学になった時に初めて自分の部屋を持って、それで嬉しくて押し入れの襖に貼ってたドラゴンボールのポスターがあったんだけど、それが急に恥ずかしく感じて剥がす時が来るのよ。



子供じゃんと。



今になると、ドラゴンボールが俺ら世代の人格形成には不可欠で、それは何も恥ずかしいことじゃないんだけどさ。



そうやって現実に直面した時に1度は捨てる時期が来るじゃん。



ブルーハーツだって社会に出て、社会のハンマーに打ちのめされた時には、すげーダサく感じて聞けなかった時期があったからね。



それでもまた帰ってくる時が来るのよ。



俺も風邪をこじらせて扁桃腺で入院して退院してまたすぐに再入院してってそれで二度目に退院していつまた再発するかわからん時にブルーハーツの人にやさしく聴いて泣いたもんね。



音楽で救われることあるじゃんって体感するのよ。



そうするとまた帰ってくるのよ。



友達の場合はまだ帰ってきてない時期だと思うのよ。



女子でいうならジャニーズを1回否定する時期がくると思うのよ。



だけどジャニーズを再び肯定できる時が来ると違うと思うのよ。



女の子の中に最初にジャニーズが入ってるのと入ってないのは違うと思う。



最初からエグザイルだと違うのよ。



お笑いならドリフから入らないとダメなのよ。



で、ドリフも否定する時期が来るのよ。



でも帰ってくるのよ。



やっぱすげー面白いと。


家族でゲラゲラ笑って幸せだったなと。



どんなジャンルでも時代が回るまでは濃密な世代とそうじゃない世代に別れると思う。



最初からシュールはわからない。



基礎や基本があってから次に発展してきた訳でね。



お笑いも絵画もクラシックとかの音楽や芸術ってもんはね。



それはテレビのバラエティーでも同じように、過激な時代を知ってる世代だけが発展を楽しんでしまったからね。



下の世代はついてけなくなる。



エロにしたって今はネットでいきなり無修正だもん。



ファミコンの面白さと、今のハードの容量で同じ面白さのソフトを作れって言っても逆に難しい訳でさ。



限られた制約の中でこそ補える面白さがあったのよ。



それは貧しさや人間関係も同じでね。



だから天然のままでいられることの不自由さ、その足枷が消えないから誤解されることになる。



友達とカラオケに行ったことがある。



友達は音痴だから歌いたくないと。



友達が入れた曲を俺が2時間歌い続けるというね。



その中にキンキキッズの曲があったのよ。



友達の中にジャニーズが入ってるとは思わなかったから驚いたのよ。



そしたらキンキキッズは何気に好きだと言うのよ。



そして友達は天然ぶりを発揮するのである。



「私は堂本くんが好き」


いや、どっちも堂本くんだから!!



その帰りに、小さなつけ麺屋に寄った。



寒かったのでセルフの水ではなく、カウンターにあったポット見付けた友達がそれをコップに注いでくれた。



はい、と渡されて飲もうとしたら匂いが明らかに割りスープだった。



満月満月ちゃん?これ、つけ汁を最後に割るやつと言うと友達は…



「昆布茶かと思った!?」と目を丸くしていた。



全ての答えが天然であるとするならば、俺の中で再びある疑問が湧いてきた。



もしかすると、友達の旦那はそこまで悪い人ではないのかもしれないと…。



続く