友達の逆襲2 | 天狗と河童の妖怪漫才

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妖怪芸人「天狗と河童」の会話を覗いてみて下さい。
笑える下ネタ満載……の筈です。

友達の学生時代の写真を見てもそこまで悪そうな感じには見えなかった。



交遊関係というか、友達の友達も当時としてはどこにでもいた女の子たちだった。



それなりの写真を選んで持ってきたとは思うが、プリクラに関しては大量にあったので友達が差し出したものだけを見た。



たぶん、当時の彼氏と写っているプリクラもあったと思うので、そこは触れたら面倒だなと思ったからだ。



友達とは同い年だけあって当時の流行りや思い出話はそれなりに面白かった。



ただ、その友達自身の思い出話だけは何かが違った。



話のテンポが面白い話としては完成していない、なにか吹っ切れない感じの主人公を眺めているような感じだった。



俺は男だから女同士の友達付き合いというのは知らない。



女の友情ってやつもよくわからない。



ただ、友達がわたしの親友だと紹介した女の子が、当時としては早過ぎたマツコ・デラックスのような体型だったので安心感と好感度だけは上がっていた。



たぶん友達が当時の思い出話を完成した面白い話として喋っていた友人とは、この親友なのだろうと勝手に解釈していた。



他の女友達とは背伸びをして付き合っているような、まぁ青春時代とは誰もがそんなものだろう。



友達が親友と写っているプリクラの中での楽しそうにふざけているポーズには見覚えがあった。




そのポーズは俺が友達と、友達になる前に1度だけ見たことがあった。



その頃から無意識にやっている仕草なのだろう。



他のプリクラは両手を前方に伸ばした当時の女子には定番のポーズばかりだった。



年齢の違いもあるが、あまり今の友達と似た面影はなかった。



女友達との卒業旅行で寝ているところを撮られたという1枚の写真だけは、今の友達と似たような 優しい笑みを浮かべていたのだ。



とはいえ、この写真で一言耐久レースのような展開はしんどかった。



面白いことを言おうと考えるから結果として、友達を傷付ける発言を回避していただけだと思う。



その翌日くらいだったろうか?



友達は赤ん坊の時から20代半ばくらいまでの写真を大量に持ってきたのだった…。



さすがに軽く引いた。



その写真の全てを笑いに昇華するだけの才能が欲しかった。



時代は35年前に遡る。



昭和である。



知らないおっさんとおばさんが写っていた。



友達の両親だと説明された。



俺は一体、なにをしているのだろうか?



彼女の過去の写真ですら見た記憶はあまりない。



友達の七五三の写真を見た。



俺は兄貴との男兄弟なので、幼少期の女の子についてのあるある話はまるでない。



ただ、笑顔や何気無い仕草だけは見覚えがあるものだった。



完全に聞き手として友達の話を聞いていた。



小学校の遠足や修学旅行の写真へと友達はすくすく成長していった。



それと同時に友達は幼い頃から習い事をしていた写真もあった。



その習い事も本格的なやつで、小学校や中学校を毎日早退してまで通っていたと言うのだ。



ちょっとしたお嬢様だったのだろう。



同い年として当時のあるある話をしていても友達が笑わない時が度々あった。



その理由はいつも、習い事をしてたから分からないというものだった。



俺は「都合が悪いと何でも習い事で済まそうとしてますよね?」と冗談まじりで言っていた。



あるあるネタとは、知らない者には悲しいネタだと知った。



友達は学校を早退して習い事をしていたので、学校の掃除などはやったことがないと言った。



それが理由で小学校時代は、ずっとイジメられていたと。



いじめの内容などは語れることよりも語れない内容こそ悲惨なものだから大体の察しはつく。



サンポールとクレンザーは学生時代のトイレ掃除の思い出だが、友達は学校にそれがあることすら知らなかったのだ。



ここに、友達が差別を憎む志しが芽生えたのだと俺は理解した。



それが後に父親が旦那の国籍を差別したことで、その志しを貫いて旦那と結婚することになったのだろう。



いじめから守って欲しいと願った少女にとって、その相手が極道だろうとヒーローには違いなかったのだろうと。



そして、その極道ですら少年時代は、当然ながら国籍による差別やいじめに耐え抜いて生きてきたのだろう。



少年時代や少女時代に、他人に対して失望することは計り知れないものがある。



愛されるのではなく、憎まれる世界で無力な子供が生きて行くのは失望であり、自分を守る術としての感情だけを武装することになる。



そう、写真の中から友達の優しい笑顔がある時から消えたのだ。



偽りの笑顔で楽しそうな写真として残っているだけなのだ。



この世界には3つの人間が存在する。



いじめたことのある者。


いじめられた者。



そして、それらを傍観していた者。



世界の大半は傍観者なのだ。



いじめられた側が失望するのは、いじめる相手ではない。



それを傍観する者たちに対して失望するのだ。



それが教室という世界であり、それが地球だからだ。



いまさら平和を訴えたところで、傍観者としての前科は消えない。



いじめられていた者たちの、その後の人生など興味もなく笑っているのだから。



お前のことだよ。



この友達の事実に対して俺がここまで関わっていることも理解できた。



俺も小学生時代にいじめられた経験と、いじめた経験があるからだ。



俺の場合はクラスのスターから転落するパターンだった。



その予兆はあった。



クラスで俺の2番手くらいの人気者が二人いた。


どちらも仲良しグループだった。



そんなある日、その二人が俺のところにやってきてある質問をしてきたのだ。



仮に二人をAとBとしよう。



Aはクラスの中で俺のことが一番好きだと言うのだ。



そして、Bもまたクラスの中で俺のことが一番好きだと。



二人は俺がAとBのどっちが一番好きなのかを俺に聞きに来たのだった。


小学5年の終わりくらいだったろうか、今ではその記憶は曖昧になった。


その質問に当時の俺は単純に嬉しくて「どっちも好きだよ」と返事をしたのだった。



これがいけなかった。



帝王学というものは知らないが、俺の結論は間違っていたことになった。



男社会には序列というものを作らなくては秩序が保てないのだ。



特に子供のような獣にとって、群れというものには序列がなくてはならないのである。



風邪で1日休んだら革命が起きていた。



登校してからの「おはよう」に対する友人の冷たい返事をいまだに覚えている。



仲良しグループから俺はシカトされたのだった。


陰険なイタズラや残酷ないじめも経験したが、他のクラスにも友人はいたし、仲良しグループにも一人だけシカトをしないやつがいたのだ。



こいつのお陰で、俺は人間に対する失望ではなく、希望を信じれているのだ。



シカトを命令されても拒むという、それを子供のときに真っ直ぐに行える人間が存在することは希望を与える。



首謀者がAなのはわかっていたが、他のメンバーまで裏切ったことには絶望した、でも、それが人間ってもんだと思えるのも、希望を与えてくれる人間がいるからなのだ。



とはいえ、それも小学生の子供なのだから子育てってのは世界を変える力がある訳でね。



そうこうしていると、AとBが揉めて俺をシカトすることで味をしめたAはBをシカトすることになった。



Bは俺に話し掛けてきた。



どの面さげてと思うが、当時は単純に嬉しかった。



俺とBが再び仲良くなるとクラスの勢力図も変化する。



Aにぶら下がってる連中も疑心暗鬼になって、いつの間にやらまた元の仲良しグループに戻っていた。



そして次はCをシカトすることで、俺もいじめを経験することになった。


そんでまた仲良くなって卒業した。



なぜ俺とBとCがシカトされたのか今までわからなかった。



この3人の共通点を思い出した。



五年生の時に学校を脱け出して大騒ぎになったメンバーだった。



そのメンバーにAはいなかった。



たぶん子供ながらにAのことを親や教師の前では裏切ると予測して最初から誘わなかったのだと思う。



そして俺のことをシカトしなかった希望の彼は、学校の裏口まで一緒に行ったのだが「やっぱやめとく」と引き返したのだった。



そして、最後まで口を割らなかった。



なんて凄いやつなんだ。



俺とB以外は別の中学へと進んだ。



そこでもAはイジメをやめなかった。



風の噂でDがシカトされてると聞いたことはあった。



中学でのシカトはきついだろう。



成人式の時にDとは再会したのだが、やはりイジメの後遺症のある他人に失望した無駄に気を使う振る舞いを見せていた。



2011年。



震災の少し前。



Dは自殺した。



嫁と子供二人を残して逝ってしまった。



葬儀に参加した俺の母親から葬儀の終わった夜に彼が亡くなったことを初めて聞かされた。



俺は黙ってた母親にぶちキレた。



そして黙っていた死因について聞かされた。



うつ病だったそうだ。



その根本的な原因が何なのかは俺にはすぐ理解できた。



全ては、俺があの時、AとBに対してちゃんとした言葉を伝えられていたらこんなことにはならなかった。



「どっちも好きだよ」なんてバカなこと言わなきゃよかった。



すぐにAをぶん殴ってたらよかった。



暴力だろうと統治するためには必要なんだと知った。



クラスの人気者という権力を正しく使えばいじめはなくなると。



Aは今でものうのうと生きて笑っているだろう。



だけど、それは偽りの笑いだ。



なぜなら本当の面白いことを履き違えている。



俺が笑いに執着することや、こんなクソブログを書き出した理由も思い出した。



それでも過去は変えられない。



これからどう生きるかだ。



友達の写真は中学生になった。



ここでまた友達の現在に繋がるような事件が起きたのだ。