なぜ世の中の中学生、高校生の大多数が、こうまで勉強は楽しくないというのか?
一方で、多くの先生は自信家であり、ご自身の授業や力量に自信がある。
だが、生徒の本音を聞けば、それがどのレベルの偏差値の学校であろうと、大半の生徒は勉強・授業は楽しくない、正確にはつまならいという。
もちろん、先生方に言わせれば、それは生徒自身の意欲や自覚の問題であることになる。
もしくはそもそも勉強とは楽しくないもので、我慢や辛抱が必要だと思われている先生もいるだろう。
しかしいつも思うことは、
「学びとは楽しい」
「面白い学びはとは楽しい」
「楽しい学びとは面白い」
である。
それを教える側がいつしか忘れ、偏差値を上げること、テスト点数を良くすること、きちんとノートを提出させるなど決まりを守らせることだけが「勉強」だと思うようになった。
むろん、教える側もそうした「勉強」で育ってきたわけであって仕方がないのかもしれない。
教員の働き方が問題になっている。
「時間がなくて教材研究ができない」
「時間があればもっといい授業ができるのに」
きっとこれは真実であろう。
だが、もし時間があって生徒のためと思ってしっかり教材研究ができても、果たして生徒の大多数が「勉強は楽しい」「授業は面白い」になるだろうか。
授業の工夫は大切だし、そのために教材研究も大切だ。
その時間を得ることができないのも論外だ。
しかし、もっとも考えなければならないのは、現在の「勉強」そのものが、本質的に「面白くない」「楽しくない」ことだ。
それを「生徒側に理由がある」と考えるのをやめて、「勉強」や「学び」そのもに問題があり、「教え方」そのものに課題があると考えるべきだ。
タブレットをいくら使っても、「勉強」や「学び」は大人から見てその本質は「懐かしく」感じることができる。
インターネットもAIもなかった30年前の中学生、高校生だった大人からみてちゃんと「懐かしい」のである。
つまり変化していない。
そうではなく、タブレットの問題でもなく、授業名の問題でもなく、例えばもし授業中に「先生と生徒がさかんにディスカッションしている」光景があれば、大人からみてサプライズだ。
「考え方」を学ぶための授業が展開されていれば、もっとサプライズだ。
多くの学者は言う。
「興味関心を持って楽しく学ぶことです」
学校の授業をこんな風に思える生徒は残念ながら珍しい。
「勉強は楽しい」
「勉強は面白い」
これを誰かがダメにしている。
でも勉強がつまらない、英語が嫌いだと言っている生徒が、担当の先生が変われば「英語は楽しい」となることだってある。
「あいつは相手をみて勉強をしている」
なんて悲しい批判は哀れである。
しかし、ほぼすべての生徒が、「ほぼすべての授業はつまらない」と思っている、先生が眼をそむけたくなる現実がある。
その現実と向き合い、
「なぜ勉強がこんなにも楽しくないのか?」
「なぜ自分の授業はこんなにも面白くないのか?」
そんな風に一生懸命に「疑問」をもって「思考」してくれる先生が増えれば、教育の未来はきっと明るくなると思う。
学びとは楽しく面白いのである。