2019年8月26日、84歳の母に悪性脳腫瘍(膠芽腫)がみつかり、治療しても翌年夏までもつかどうか、このままなら余命3ヶ月程と告げられましたが、超高齢の母にとってあらゆることを考え悩んだ結果、母には余命を告げず、積極的な治療をしない自宅療養(緩和ケア)を選びました。
〔前編〕発覚から入院中の話です。
〔後編の前編】退院後、3ヶ月間の話です
続きです。
年は越せないと言われたけど、母は無事に2020年を迎えた。
●2020年1月
脈・血圧・SpO2は安定、平熱、食欲も普通。快便。
・1/11・・・往診医の年明け初診療日。
年末の血液検査結果で少し数値UP項目があった(←忘れた)けど特に問題なし。
・1/17-18・・・群馬まで墓参り
スタスタ歩き、スピードも速い↓
下旬、再び症状が現れる。
・口の左側から食べ物がはみ出たままで本人気づかない(病気発覚前と同じ)。
・前かがみになると少しめまいがする。
・椅子やソファからの立ち上がりに少し時間がかかるようになる(湯船からでるときも同じ)。
でも、手すりにつかまりながらもひとりで歩ける。
・1/30
身体の脇腹や太腿の内側などにアレルギーような発疹がでた。
服用する薬が増える。
※エビナスチン塩酸塩錠20mg:1錠(晩)
●2月
脈・血圧・SpO2は安定、平熱、食欲も普通。快便。
でも、症状は進み、 「トイレ」、「車椅子の乗降り」「車の乗降り」は介助が必要になる。
顔は完全にムーンフェイス(ステロイドを飲み続けているから丸さが半端ない!)。
・2/1
和室にあった介護ベッドをリビングに移動。
私もリビングのソファベッドで寝起きを始める。
※ベッドから起き上がり、手をのばせば壁にある手すりに届きやすくした。
・2/2 まだ普通に歩いて立つのも問題なし。
・2/4 眼科でレーザー治療。
(眼の前がもわ~んとすると言って治療。眼も頭もスッキリしたらしい)
ステロイドの目薬を朝晩に点眼(2週間)。
・2/7‐8 1泊で南房総の旅。
外では歩かず車椅子を使用。
でも、美味しいモノと奇麗な花畑に母は大満足。
海が見える部屋でのんびり過ごす
手すりがあればひとりで歩けてトイレに行けたが、何もないと介助が必要に。
旅行後は湯船に入るのをやめ、シャワーだけに。
この頃、再びパジャマのズボンの左側が上がり切らないままの状態がでるようになった。
・2/25から尿取りパッド&オムツ
ひとりトイレが困難となり、ウンチ以外は「オムツ」にした。
(トイレまで歩くのに時間がかかる、下着やズボンの上げ下ろしで下を向くとめまいがするようになったので)。
でもまだ一人でも掴まり立ちはできていた。
●3月
脈・血圧は安定、平熱、食欲も普通。快便。SpO2は95-97の間。
往診は隔週から毎週土曜に。
症状はジェットコースターのように進んだ。
・3/4 家の中でも車椅子生活へ。
ベッドから立ち上がるのも手すりに摑まるのも一人では厳しくなった。
・3/8 初めての痙攣(顔) ・・・・・イーケプラ1錠追加(朝・夕)
この頃には、
・体力低下で疲れやすくなる(ベッドと車椅子の移乗が何回もあると疲れる)
・足の筋力低下(寝たきりだから)
・右手は動くが、左手は浮腫んでほぼ動かせなくなる。
私はテレワークで家に居けど介助すべきことが増え、ケアマネさんの薦めでヘルパーさんを頼むことになり、探してもらう。
・3/15-17 母のバースデー旅行(南房総)
誕生日だからと、往診医に渋々承諾をもらう。
旅行中に痙攣が起きた場合に備え、発作抑制の座薬を持って出発。
初日も中日も大丈夫だったのに、最終日は介助しても助手席に乗るときに足に力が入らず、他人の手も借りてやっと車に乗せる。
助手席では姿勢や座り位置を直すのも自力でできなくなっていた。
・3/19 この旅行のあと、ほぼ全介助になる。
座位は安定せず、着替えもトイレも一人でできず。
右手だけは動いたので、食事や歯磨きは介助しつつも自分でできた。
シャワーが無理になり、夜に全身をホットタオルで拭くのが日課になる。
(車椅子の移乗回数を減らすために、朝もホットタオルで顔を拭いてあげる)
この日、介護ベッドのマットレスを「エアーマット」(体圧分散式)に変更。
・3/23 介護ヘルパーさん初日。
この日から、午前にヘルパーさん1時間、午後に訪看さん1時間という体制に。
・3/24 ポータブルトイレが届く。
何回か使ったが、ほぼ訪看さんに摘便をしてもらう。
この頃、左手は浮腫んで動かせず、食は細くなり、体力も落ち、車椅子に座ると首が右に傾斜したまま。
薬を飲みこむのに時間がかかる。声がうまくでない(絞り出すように声を出し、ゆっくり話し、呂律もややおかしくなる。)
顔の表情も無表情に近くなっていた(顔の筋肉がこわばってきていた。)
●4月
SpO2が下がる(94か95)
口数は少なくなり、ゆっくりだったが会話や意思疎通は問題ない。
訪看さんやヘルパーさんが話しかけ、発語を促してくれていた。
薬を飲むのが本当に辛そうだったが、嫌だとも飲みたくないとも言わずに時間をかけて頑張って飲んだ。
ゼリーで飲むことも勧めたが、「水」がいいと言うので、炭酸水にしたら飲みやすくなったと言っていた。
(訪看さんは、もう回数や薬を減らしてもいいのにと言っていたが、往診医の処方も指示も変わらず)
・4/4 ウエルキャブ納車。桜を見せたくて、母を乗せて近所を一周。
※3月の旅行後すぐに助手席がリフトアップする福祉仕様車を探した。
・4/10
右手で口に食べものを運ぶこともままならなくなり、食事介助を開始。
この頃には、ヘルパーさんや訪看さんがいる間も入眠時間が増える。
・4/14
訪看さんから「お葬式屋さんは決めてある?」と聞かれ、固まる。
※4/10からのSpO2は92か93に下がる。血圧や脈は平常。
・4/15
昼間は玄関前に咲く満開のツツジを観たり、少しおしゃべりしながら過ごす。
夕食を普通に済ませた後、歯磨き。
右手は動くので自分で歯磨き中↓ (車椅子に座ってます)。
歯磨きのあと、車椅子でベッドのそばに戻り、話しかけていたら、「疲れちゃった」と一言。
この日は早々にベッドに入って就寝。夜11時ごろ、オムツを取り替える。
・4/16
朝、いつものように起こしてもうなだれていて、目を開けない。
声をかければ反応あり、返事はなくても頷きあり、右手を動かして足をかいたりしていた。
ヨーグルトを口に運ぶと食べてくれた(1個食べられた)。
結局、開眼しないまま1日終わる。
この日から訪看さんは1日2回。
・4/17 反応もなくなり、意識障害になる。
熱が38℃を超えたり、下がったりを以降毎日繰り返す。
訪看さんとヘルパーさんが毎日眠り続ける母の世話をしてくれた。
(オムツ取り換え、からだ拭き、陰洗、マッサージ、オーラルケアなど色々)
・4/18 SpO2は91。
痰が絡みやすく、吸引器を使う。チューブを入れると、苦しいのか口をギューッと蒸すんて抵抗する。
でも、開眼しない。
・4/20 Spo2は90を切り、88。 尿の量が減る。
・4/22~24 SpO2は85~87。 呼吸は左肺だけ。
眠り続ける母に話しかけていたら母の目尻に涙がにじむのを発見。
(耳は聴こえているというのは本当だ!)
●2020年4月25日
10時に訪看さんが来て、「「脈が測れない、チアノーゼが出ている」と言って往診医に連絡。
朝10時のSpO2は78。往診医か来るのを待つ間、12時48分に呼吸が止まる(呼吸が聴こえない)。
往診医が午後1時18分死亡確認。
膠芽腫だとわかったときに主治医から言われた余命より、母は5ヶ月も長く私のそばにいてくれた。
入院生活1ヵ月、在宅療養7ヶ月での旅立ちだった。
我儘を言うこともなく、
病床でいつも私を気にかけてくれ、
仕事は終わったかい?
お風呂に入ってゆっくりしておいで。
ごはん、美味しかったよ。
って。
いつもいつも最後まで私のことを気づかってくれていた。
まだまだ昨日のことのようです。