こんばんは。
20系の続きです。
先に20系寝台車の略歴を書いておくと
昭和33年、
初の固定編成特急客車として誕生。
登場時は固定窓、冷暖房装備と、その
優雅な姿から「動くホテル」と呼ばれた。
それまでの一般型客車の寄せ集めで
運行していたあさかぜに投入され、
青い車体カラーからブルートレインの名が
初めてつけられた列車だ。
モノコック構造による徹底的な軽量化と
集中電源方式が特徴となっている。
特殊なブレーキ装置により運転速度は
110kmが可能となっているが、
元空気溜を持つ対応の機関車でないと
最高速度は95kmに抑えられる。
後にカニの荷物室にコンプレッサーと
元空気溜めを積み、対応する機関車で
なくても大丈夫になりました。
と、ごたくをならべてもつまらないので
写真を見ていきましょう。
私も20系の華やかなりし頃は知らず、
末期にぎりぎり間に合った世代です。
乗ったのは、あさかぜに1度きりですが
乗れただけでラッキーだったかも。
トップの写真はエキスポドリーム号です。
1985年のつくば科学博覧会のとき、
宿泊施設の不足を補うために運行された
列車ホテルに使われたときのもの。
土浦駅で客を乗せ、そのまま構内で1泊
翌早朝、万博中央駅で客を下車させる、
というもの。
本来の寝台特急は14系、24系化が進み
余った20系と、これもEF81の増備で余った
EF80があてられました。
機回しを不要にするため、前後にEF80を
連結した贅沢な使い方でした。
運用は土浦から常磐線を上り、2つめの
万博中央で客扱い、そのまま藤代まで回送
ふたたび常磐線を下り土浦まで戻ります。
583系で紹介したのと同じパターンでした。
トップの写真はEF81牽引の12系による
快速エキスポライナーとの並びです。
このときの臨時列車はとてもおもしろく、
ずいぶん撮ったのでそのうちまとめます。
東京圏で最後まで残ったのは
臨時急行「おが」でした。
受持ちの秋田車両所では
ナハネフ22はすでに廃車になり
ナハネフ23が末尾についていました。
また、14系座席車の八甲田に
ナハネ1両とマニ2両を連結した
モトトレインも20系でしたが
活躍した期間は短かったと思います。
関西地区でも残党による急行の運用は
見られました。
雲仙
明星
この時点で20系による特急運用が
消滅して久しかったのですが
1986年、特急運用を外れてから
7年ぶりに臨時の日本海として
奇蹟の復活を果たしました。
《日本海54号》
山崎~茨木
新大阪~大阪
大阪~宮原
ファンはヘッドマークも期待しましたが
そちらは実現ならず、
絵入りのテールサインのみです。
ですがこのサイン、なかなか似合ってますね。
乗客の評判は、というと最悪でした。
70cm幅2段寝台の24系定期日本海と
53cm幅3段寝台の20系臨時日本海で
料金の差は千円。
すでに特急の設備ではありませんでした。
金谷~菊川
次々と営業運転から外された車両は
つぶされる前にもうひと働きしました。
ナロネ21×3+カニ、ワキ貨車の編成は
カートレインです。
多分に試験的な意味合いが強く、
残念ながら長続きしませんでした。
自分にとって最後の撮影になったのは
東北線内の「おが」でした。
鉄ちゃんを始めたころには
すでに最後の活躍の時期で
全盛期はほとんど知りません。
そんな20系でしたが
鉄道模型の世界では入門時から
馴染み深く、憧れの車両でした。
次回は模型の20系を見てみましょう。
本日もご乗車ありがとうございました。
おまけ
家にあった一番古い時刻表から。
(もちろん死んだ父の代のものです)
まだ1等、2等制のころです。
A室はA個室、B室は開放A寝台。
今のB寝台は2等寝台。
あさかぜはA寝台を5両も連結していました。
各車両に乗客掛室があります。
寝台車1両ごとに1人ずつ専属のボーイが
乗務していたことが判ります。






















