《鉄道写真を始めたころ》
生まれは文京区だが、1歳から育った所は
東京のはずれ、国鉄常磐線のほど近く。
ぐずったときは踏切脇で電車を見せれば
ぴたりと泣き止んだ、と親に言われるが
自分の記憶にないのでさだかではない。
小学校に上がると、教室の窓から電車を見
ては、よそ見するなと先生に怒られ、
眠れぬ夜は貨物列車の車輪の音を数えた。
そんな身近に電車が走っていたので、
気がつくと鉄道少年になっていた。
当時の男の子はたいてい電車か車か飛行機
が好きで、中には切手収集なんて高尚な
趣味の友達もいたけど、遊びの途中で汽車
など通れば一時中断して「汽車だ汽車だ」
とみんなで注目した。
小学5年か6年くらいになると、父親の
カメラのフィルムが半端に余ると貸して
もらい、自転車をこいで電車の写真を
残りの数コマ撮りに行くようになった。
当時のカメラがこれ。
キャノン・デミというハーフサイズ版。
と言われてもぴんとこないでしょ?
今ではカメラのフィルムを見たことが
ない人さえいますからね。
35㎜カメラはフィルム1本で20コマか36コマ撮れたが、
高価で貴重なフィルムなのでケチって半分の大きさで
撮影してコマ数を2倍に使うカメラがあったのだ。
(20枚撮フィルム→40枚撮れた)
ベタ焼きを見ると、下段の普通のカメラは3コマ、
上段のハーフサイズは倍の6コマ撮れているのが判る。
現在のデジタルからは想像できない話で100枚200枚
撮った中から良いのを選べば良い今の撮り方とは
1コマにかける気持ちもかなり違っていました。
さて、こんなカメラを持って鉄道少年から中学、高校生頃に
撮り始めた写真をスタートに、社会人になり一眼レフを抱え
全国を撮り歩いた約2千コマの写真から順次発表していこうと思う。
たいした写真でもないし、資料的な価値もほとんどないけれど、
なかには懐かしいと思う人もいるかもしれない。
コピーして個人的に楽しんでいただくのは大いにけっこうですが、
転載はご遠慮くださいね。
鉄道写真館の名前のとおり、コメントは最小限でいくつもりです。
(ただの手抜き!?)
第1回目は上野駅 昭和編ということで
昭和47~48年ころの撮影です。
まだ新幹線の通る遥か前、いろんな名前の特急が出入りしていた。
鉄道少年のあこがれは特急列車で、皆ヘッドマークの写真を集めました。
こだま型といわれるボンネットタイプの特急電車(181系、483系)が多く
たまに寝台兼用の583系やディーゼル特急、日光型の157系などが
異彩を放っていた。
早朝の上野駅は東北や上越からの夜行列車の到着ラッシュで、
頭端式の地平行止りホームには旧型電機が顔を並べていた。
特に年末年始は臨時列車も多く、機関車も不足がちで、
標準的なEF58が足りずEF57が数多く充当され、楽しみだった。
大型のデッキ付きのEF57は勇ましくかっこよかった。
貴重なフィルムのこととて、EF58にはシャッターを切らず
EF57のためにフィルムを取っておいたこともある。
今思えばもったいなかったなあ。
東北線の荷物専用列車はEF56が牽引。
信越線から上ってくる列車は、
碓氷峠を通過するためEF62の牽引だ。
長距離どん行や夜行列車は客車列車が主流だった。
客車区のある尾久~上野間の回送は機関車が推進するため、
客車の先頭には非常ブレーキを持った回送運転士が乗務した。
ぷーぷーいう警笛音からラッパ屋さんと呼ばれていた。
上野駅の低い地上ホームは13番線から20番線までありました。
向こう端まで見通せる位置に立つと、特急型から急行、ローカルと
各種の列車が顔をそろえて壮観でした。
はつかりの583系はもっとも過酷な運用で、
昼間はつかりで青森へ行き夜間はくつるで上野へ帰ってくる、
という休みなしのパターンだった。
昼夜兼用の寝台電車の特性を最大限に生かしていました。
「いなほ」とその間合い運用の「ひたち」には
最初のディーゼル特急キハ81系が使われていて、
急勾配の板谷峠を通過する「つばさ」は強力型のキハ181系でした。
写真のキハ58系は非電化の水郡線へ直通する常磐線の「ときわ」です。
このころ1往復だけだった「ひたち」を増発するため、
483系・電車特急のひたちも使われるようになりました。
さて、今日のブログはここまでです。
今後、上野口の東北線の走行シーンへと続きます。
ではまた次回。
ご乗車ありがとうございました。
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