上野駅 昭和編 | きゅうの休憩室

きゅうの休憩室

ドールを始めたのは2015年。
コロナの自粛生活がきっかけでアニメに転向。
工作はチマチマと続けていますが。。。


《最初に》

この記事は濃密な鉄ちゃんにしか

興味のわかない内容ですので、

純粋なドール者さんは読み飛ばして

くださいね。 ごめんなさい。



《鉄道写真を始めたころ》


生まれは文京区だが、1歳から育った所は
東京のはずれ、国鉄常磐線のほど近く。
ぐずったときは踏切脇で電車を見せれば
ぴたりと泣き止んだ、と親に言われるが
自分の記憶にないのでさだかではない。


小学校に上がると、教室の窓から電車を見
ては、よそ見するなと先生に怒られ、

眠れぬ夜は貨物列車の車輪の音を数えた。
そんな身近に電車が走っていたので、
気がつくと鉄道少年になっていた。


当時の男の子はたいてい電車か車か飛行機
が好きで、中には切手収集なんて高尚な
趣味の友達もいたけど、遊びの途中で汽車
など通れば一時中断して「汽車だ汽車だ」
とみんなで注目した。


小学5年か6年くらいになると、父親の
カメラのフィルムが半端に余ると貸して
もらい、自転車をこいで電車の写真を
残りの数コマ撮りに行くようになった。







当時のカメラがこれ。
キャノン・デミというハーフサイズ版。
と言われてもぴんとこないでしょ?
今ではカメラのフィルムを見たことが
ない人さえいますからね。


35㎜カメラはフィルム1本で20コマか
36コマ撮れたが、高価で貴重なフィルム
なのでケチって半分の大きさで撮影して
コマ数を2倍に使うカメラがあったのだ。
(20枚撮フィルム→40枚撮れた)


ベタ焼きを見ると、下段の普通のカメラは
3コマ、上段のハーフサイズは倍の6コマ
撮れているのがわかる。


現在のデジタルからは想像できない話で

100枚200枚撮った中から選べば良い

今の撮り方とは1コマにかける気持ちも

かなり違っていた。


さて、こんなカメラを持って鉄道少年から
中学生、高校生ころに撮り始めた写真を
順次発表していこうと思う。
たいした写真でもないし、資料的な価値も
ほとんどないけれど、なかには懐かしいと

思う人もいるかもしれない。


コピーして個人的に楽しんでいただくのは
大いにけっこうですが、
転載はご遠慮くださいね。


写真部屋の名前のとおり、
コメントは最小限でいくつもりです。
(ただの手抜き?)


第1回目は上野駅編ということで
昭和47~48年ころの撮影です。

































まだ新幹線の通るはるか前のことで

いろんな名前の特急が出入りしていた。

たいてい、こだま型といわれるボンネット

タイプの特急電車(181系、483系)だが

たまに寝台兼用の583系やディーゼル

特急、日光型の157系などが

異彩を放っていた。


早朝は東北や上越からの夜行列車の

到着ラッシュで、頭端式の地平行止り

ホームには旧型電機が顔を並べていた。


特に年末年始は臨時列車も多く、機関車

も不足がちで、標準的なEF58が足りず

EF57が数多く充当され、楽しみだった。





















東北線の荷物専用列車はEF56が牽引。

信越線から上ってくる列車は、

碓氷峠を通過するためEF62の牽引だ。





















長距離どん行や夜行列車は

客車列車が主流だった。

客車区のある尾久~上野間の回送は

機関車が推進するため、客車の先頭に

回送運転士が乗務した。

ぷーぷーいう警笛音からラッパ屋さんと

呼ばれていた。















はつかりの583系はもっとも過酷な
運用で、昼間はつかりで青森へ行き

夜間はくつるで上野へ帰ってくる、

という休みなしのパターンだった。

昼夜兼用の寝台電車の特性を最大限に

生かしているのだ。


「いなほ」とその間合い運用の「ひたち」

には最初のディーゼル特急キハ81系

が使われていた。

急勾配の板谷峠を通過する「つばさ」
には強力型のキハ181系があたる。

写真のキハ58系は非電化の水郡線

へ直通する常磐線の「ときわ」だ。

このころ1往復だけだった「ひたち」
を増発するため、483系のひたちも

使われるようになった。


さて、今日のブログはここまでです。

今後、上野口の東北線の走行シーン

へと続きます。

ではまた次回。















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