「科学者」にも「技術者」にも、必要なのは<哲学>
先日(2022年5月15日)の新聞に掲載された千葉工業大学の「意見広告」
には、びっくりしました。私の手許に届くのは朝日新聞と産経新聞ですが、
黒地に「すべての科学者に告ぐ。」という赤黒い文字が、異様な雰囲気を
漂わせていて…。
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すべての
科学者
に告ぐ。
世界は急速に、良くない方向へ進んでいる。その真ん中に科学技術が存在していることは、否定のできない事実である。最先端の技術が、他国の軍事力を凌駕するため利用される。命を救うための研究が兵器に応用され、いとも簡単に人命を奪う。戦争によって、技術革新は進んでゆく。その葛藤に我々は苦しみ続けてきた。しかし、科学者たちよ。今こそ声を上げるべきだ。すべての技術は人間を幸福にするため生まれ、世界に平和をもたらすためにのみ
生かされるべきだと。
千葉工業大学
CHIBA INSTITUTE OF TECHNOLOGY
本日、創立80周年を迎えました。
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驚いた! 驚いた!
その内容を整理すると、こういうことです――。つまり、世界には「科学技術が存在している」。そして、「最先端の技術が、他国の軍事力を凌駕するため利用される。命を救うための研究が兵器に応用され、いとも簡単に人命を奪う」と。さらに、「戦争によって、技術革新は進んでゆく。その葛藤に我々は苦しみ続けてきた」。だから、「科学者たちよ。今こそ声を上げるべきだ。すべての技術は人間を幸福にするため生まれ、世界に平和をもたらすためにのみ生かされるべきだと。」
いったい何が言いたいのか、分からない――。これを発出したのは「千葉工業大学」ですが、対象とされた「科学技術者」の多くは、当の千葉工業大学をはじめとする私立の工学系大学や国公立大学の工学部を巣立った人たちではないですか? となると、この「意見広告」はわが身(大学)を振り返る反省の弁なのでしょうか。もしそうであるなら、学内で意識を共有すればいいのです。いや、「すべての科学者に告ぐ。」とありますから、世界に向けての発信ともとれなくはありませんが。
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さて、ここで問題になるのは「科学者」という言葉です。それはいったい誰を指しているのでしょう。「自然科学者」でしょうか、それとも「自然科学者を含む科学技術者」のことなのでしょうか。
その疑問を解くために、辞典(事典・字典など)を見たのですが、すっきりしません。いくつかを列挙します。「科学者」についてはこう書かれています。
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① <ウィキペディア>
科学者(かがくしゃ、英語:scientist)とは、科学を専門とする人・学者のことである。自然科学を研究する人をこう呼ぶ傾向がある。
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② <グーグル>
科学者(かがくしゃ) 科学の研究をその任務として人間社会の構成にかかわっている人々をいうが、今日では、普通、自然科学を研究の対象にして、その体系化のために研究に携わる人をさすことが多い。
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③ <日本大百科全書(ニッポニカ)>
科学の研究をその任務として人間社会の構成にかかわっている人々をいうが、今日では、普通、自然科学を研究の対象にして、その体系化のために研究に携わる人をさすことが多い。生産手段の改善など主として応用面の研究に携わる技術者とは区別されるが、科学の組織化、体制化が進み、科学研究が経済主体としての産業や政治と密着してきた今日では、「科学技術者」の用語で包括される場合がある。
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それらに加えて、
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④ <YAHOO!知恵袋>では、「科学者の定義は何ですか?」の質問から選ばれた
「you********さん」の解答にはこうありました。
生業だろうと趣味だろうと繰り返し科学を追求する者。ここで云う科学の定義は次の通りと考えてよい。ある事象について仮説を立て実験ないし観察を繰り返し当該仮説についての否定または肯定の結論を得る行為。現代においては社会学者や人文学者は科学者と区別される傾向にあるので狭義には自然科学を扱う者のみを科学者と考えてよい。広義においては実験・観察に似た様態で検証を行う、即ち演繹や弁証による観察についても科学、またこれらを行う者を科学者として差し支えない。
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➡ <ウィキペディア>、<グーグル>では、
「科学を専門とする人・学者のことである。自然科学を研究する人をこう呼ぶ傾向がある」
であり、
➡ <YAHOO!知恵袋>では、
「…狭義には自然科学を扱う者のみを科学者と考えてよい。広義においては実験・観察に似た様態で検証を行う、即ち演繹や弁証による観察についても科学、またこれらを行う者…」
おおまかに言うと、この3典では「科学者とは自然科学を研究する人」を指していることになり、私が調べた限りの辞典・事典ではすべてがこれと同様の内容でした。
➡ ただ1典、<日本大百科全書>では、上記の「意味」の他に、
「…生産手段の改善など主として応用面の研究に携わる技術者とは区別されるが、科学の組織化、体制化が進み、科学研究が経済主体としての産業や政治と密着してきた今日では、「科学技術者」の用語で包括される場合がある。」とあり、他の辞書にはない「科学技術者も含む」という見解が付与されていました。
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「科学者」には、<自然科学者>のほかに、<科学技術者>も含まれるとか。これは私にとって「新たな発見」でした。なぜなら、それは「哲学」と大いに関係するからです。
「自然科学者」というのは大まかに言って、「宇宙の真理」を追究する人を指しています。人間の歴史が始まって以来、研究者は日夜、その“解明”に没頭しているのですが、ここで大事なことがあります。つまり、新たな発明や発見の結果は、この世に存在する人間に対して絶対に「善なるもの」とは限らず、「悪なるもの」も生み出されるという危険があるのです。
「善なるもの」の発明・発見は人間社会の発展に寄与するでしょうが、「悪なるもの」の発明・発見は、それが「パンドラの箱」になってしまう恐れがあるのです。悲しいかな、「研究途上で得られた結果」は現実世界において果たして「善なるもの」か、それとも「悪なるもの」かはその時点では誰も分からない。
たとえば、「質量とエネルギーの等価性」<E=mc2乗>の理論をアインシュタインが発表したばかりに、その後オッペンハイマーらによって原爆開発につながりました。
この理論をもとに現実世界で技術開発を進めれば、この世に「悪なるものが出現する可能性は大である」との明確な結論を得た(確信した)時、それを絶対この世に「誕生させてはならない」とするのは、まさに「哲学」の問題なのです。
こんなものを造ってはダメだということを決定するためには、「科学者は、<科学者>である前に<哲学者>でなければならない」のです。
科学者の「発明・発見」は中立です。この世に存在する頭脳を持つ人間の営為そのものですから、大いに研究は進めるべきです。従って、「発見した新たな事実」に対して「責任」を負う必要はありません。なぜなら、それは研究という中立の結果だから。しかし、もしその結論に沿ってこの世で生み出された物が「世界を破壊するかもしれない」というマイナスの結論を得れば即座にその研究をストップする勇気を持たねばなりません。このことを指し示すのは「哲学」のほかにありません。なぜなら、人間の<性>は「善」でもあり「悪」でもあるからです。
さらに、この掟に沿わなければならないのは「科学者」のみならず、この結果にもとづいて新たな物を生み出す「技術者」も同様です。彼らには科学者以上の「哲学」が必要です。
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現実を見れば歴然としています――。私は以前、このブログで、新たに発明された「ドローン」を見て、「いずれ兵器となる」と指摘しました。その日は、はやばやとやって来ました。案の定、現在進行形の「ロシア=ウクライナ戦争」で現実のものとなっています。大空にこんなものを飛ばすのは、もってのほか。
また今、新たに<空飛ぶ自動車>の開発が進んでいるとか。もしこれが現実のものとなれば、結果はミサイルを凌駕する「悪魔の兵器」となるでしょう。
科学者や技術者たちよ。今こそ反省するべき時だ。その理論や技術は人間を幸福にするか、世界に平和をもたらすか。世界の平和を毀損するような理論は発表を控え、新しい兵器となるような物をつくらないようにするべきだ。
(記 2022.5.18 令和4)