公家屋敷は、わが心のふるさと
京都から東京に“奠都”して、もう何年になるでしょうか――。
いえいえ、明治天皇のことではありません、私のことです。そう
早いもので、東京に住んでもう3年もたってしまいました。この
間、人様の役に立つこともせず、日々、本を読むか、ブログを書
くか、たまにプールで泳ぐ、といった塩梅で、あとは都内のあち
こちをウロウロしているという状態です。
歴史書によれば、東京へ奠都後の明治天皇が京都にいちど戻られたのは明治10年のことだったと言います。いくら繁忙極まる天皇とはいえ、ホームシックで「出来るだけ早く、京都御所に帰ってみたい」と思われたこともあったでしょう。しかし、なにせ激動の時代です。新政府に寄り添い政務に追われる身には、とても“私情”をはさむ余地はなかった……と想像します。
その点、今の私などは気ままなもので、時折り墓参を兼ねて京都に帰っています。やはり、人生のほとんどを過ごした生まれ故郷です。新幹線が京都駅に着くと、「ほっ」とします。
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そんな中、先日(2022年5月8日・日曜)の朝、産経新聞のページを繰っていると、オピニオン面に目が留まりました。見出しは「知られざる公家町に学ぶ」とあり、一気に読みました。
山上直子論説委員のレポートで、京都御苑内にある閑院宮邸跡で、新しく出来た「江戸期の景観を再現した映像」を観られたとか。
その記事を以下に引用、紹介させていただきます。
さて、何故この記事を私が取り上げたのかについては、このブログの中の<自分史・私のこと>で記していますように、私の父方の先祖もここに出てくる公家のひとつなのです。名は「烏丸家(からすまるけ)」で、傍流です。家業は「冷泉家(れいぜいけ)」さんと同じ歌道です。冷泉家は現存しますが、御苑内に在った「烏丸家」は他の公家とともに、戦後撤去されてしまいました。現在、御苑内に残っているのは「閑院宮邸」だけで、まことに寂しく、惜しいことをしたものです。
公家屋敷があった時代をふくめ、山上さんは丁寧に書かれています。
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論説委員<日曜>に書く
知られざる公家町に学ぶ
「かつての公家町はどんな様子で、公家たちはどんな暮らしをしていたのか。江戸期の景観を再現した映像ができたので、見にいらっしゃいませんか」
そんな誘いに、京都市上京区の京都御苑の一角、閑院宮邸跡を訪ねた。声をかけてくれたのは同志社大宮廷文化研究センターの山科言親さん。代々、宮廷装束に関する知識や技術を伝える衣紋道山科流若宗家だ。
明治維新で都が東京に移るまで、京都御所の周りは公家の屋敷が並び、観光名所の一つだったという。遷都後は一時荒廃したが、やがて古都は観光都市として復活。その起点となり、人々の心のよりどころになったのもこの地だった。
今も昔も中心地
京都御苑は、京都市街の中心に広がる広大な国民公園。その中に天皇の住まいだった京都御所や主に譲位した天皇のための仙洞御所、京都迎賓館などがある。今も昔も京都の中心、人々の心の中心地だ。
閑院宮家とは4家あった世襲親王家の一つで、江戸時代中期に光格天皇が出て以来、その皇統は現在にいたる。邸宅があった南西端の地を環境省が整備し、御苑の自然や歴史を紹介する施設として公開してきた。無料で利用でき、地図なども入手できるので、まずここから散策をスタートさせるといい。
4月1日、その展示がリニューアルされた。山科さんらが監修したというVR(仮想現実)映像を見に行くと…。
「うわ、まるでドローンに乗って町を眺めているみたい」
巨大なスクリーンに映し出された公家町の詳細さに驚いた。映像はときに歩くように、また鳥が空から眺めるようにその全体を追う。現状の緑豊かな公園からは想像もつかない江戸時代の街の姿。明治維新の前までは名だたる公家の屋敷が並ぶ都市だったことがよくわかる。
近い距離感
おもしろいのは、公家が御所に参内(出勤)する風景が見られる宜秋門あたりが、茶屋の並ぶ人気観光スポットだったらしいことだ。お盆の公家宅を再現した映像も風習とともに紹介され、闇に浮かぶ五山の送り火の幻想的な風情に、古(いにしえ)の都の魅力が表現されていた。
「実際、商人などは意外と自由に公家町を行き来していたようです。町の人々にとって公家たちはけっこう身近な存在だったようですね」と山科さん。
天皇や公家とのこの距離感が、江戸城を中心とした武士の街、江戸とはまた違う文化をはぐくんだといえそうだ。
今でも御苑の中を歩くと「近衛の枝垂れ桜」など公家ゆかりの名が残る。明治天皇生誕地の井戸、祐井(さちのい、幼名の祐宮から)や学習院発祥の地もあって、かつての公家町をしのばせる。
当時、明治政府は欧米列強に打ち勝つべく、西洋化と富国強兵を図ったが、一方で、京都では日本の伝統文化復興の動きも広がっていた。欧米と肩を並べるためにも日本の伝統文化を保存継承することが国家戦略である―という考え方だ。
契機は明治10(1877)年に久しぶりに京都入りを果たした明治天皇が荒廃ぶりを嘆き、御所保存と旧観維持の沙汰を下したこと。さらに公家政治家の岩倉具視が、京都再生構想をまとめた。内容は、桓武天皇が定めた平安京である京都は明媚な土地で神社仏閣があり、荒廃させるのは惜しむべきことだ。ついては京都御所を保持し、国内外の人が京都に来るようにするのがいい、という。今でいう観光促進策であった。
文化は戦略
ところで、山科さんが所属する同志社大宮廷文化研究センターは昨年4月に設立。同大もかつての公家町にあることから宮廷文化の研究や情報発信などを目指す。維新後も京都に残った公家として知られる冷泉家住宅(重要文化財)もお隣だ。
公家とは今でいう官僚で、宮中の儀式やしきたりを守り伝える役目を担ってきた。ところが、幕末の志士の活躍や町衆の暮らしに比べ、公家の生活や果たした政治的・文化的役割はあまり知られていない。実は、節句などの風習やしきたりの多くが宮中の年中行事に由来する。その維持に必要な知識や技術を「家業」として受け継いできたのが公家だ。和歌の冷泉家、衣紋道の山科家というふうに。
コロナ禍や戦争で従来の価値観が揺らぐ今こそ、心の指針にしたいのが日本古来の文化である。伝統が続くということは平和の証しでもある。公家文化に学ぶことは多いはずだ。
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私は京都に帰ると必ず、御苑内に唯一残る「閑院宮邸」に向かいます。邸内に入ると廊下を経て、奥の庭に面した部屋にどっかとあぐらをかいて座るのです。そしてそこで小一時間、庭を眺めたり、瞑想をして往時の人たちと意識や気を通じることにしています。そこにあらわれる往時の公家の姿、つまり我が祖を思い浮かべるのです。あたたかい気が流れ、ゆったりと過ごす、ありがたい時間です。
このような記事を見かけることは最近、まことに少なくなりました。しかし、日本文化の承継からしても、とても大切なことだと思います。
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ところで以前、御苑内にあった公家の全邸宅を並べた「ジオラマ」を、この閑院宮邸跡内で見た記憶があります。しかし、この前に行った折りには見当たりませんでした。ひょっとして別の場所、京都迎賓館あたりで見たのかな。私の記憶違いかもしれないのですが、我が「烏丸家」は御苑西側、烏丸通りの蛤御門付近から入ったところにありました。
記事によれば、「江戸期の景観を再現した映像が完成した」とあります。私も、出来るだけ早く出かけて拝観したい――
(記 2022.5.12 令和4)