*随想(71) 孫のクリスマス・コンサート | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

 

   

       「ジングルベル」の歌 ~ 

 

            DA PUMPの「U..A」の踊り ~

 

 

    孫(女児)が通う保育園の「クリスマス・コンサート」が数日前、

   近くの文化会館で催されました。朝9時から2時間ばかり、2歳児

   5歳児の総勢70人が一生懸命、歌と踊りを見せてくれたのです。

 

我が家も、保護者である両親(パパ、ママ)、それに私たち祖父母も駆けつけました。おかげ様で、いつにない楽しいひとときを過ごすことが出来ました。

 

 孫が通う私立の保育園は「英語」と「音楽」に力を入れているようで、舞台に上がった子どもたちの会話はすべて英語。そういえば、外国人の先生が数人おられる。グローバル化がますます進む今日の世界。その状況に合わせて学習指導要領が見直され、「2020年以降、小学3年生から英語が必須科目」となるそうな。そうとなれば、早くからその準備をする親御さんの気持ちも理解できる。

 

 私自身、(もう半世紀も前になりますが)中学校から始まった英語の授業には大層、苦労しました。英会話から始まっていれば多少興味も湧いたでしょうが、文法中心という授業はほんとに味気なかった。したがって、どうせ苦労するのなら出来るだけ早く「英会話」になじんでおくことはベターだと思う。

 

幼児の頃から英語に親しみ、とくに会話を始めておくと、それが知らず知らずの間に身についている、ということでしょう。実際、保育園で毎日習って(使って?)いるからか、我が家に来た孫を見ていると、歌をうたうようにカタコト英語を話している。

 

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ところで以前、こんなことを聞いたことがあります。(新聞だったか、テレビだったか? 記憶が定かではないのですが)

幼児に外国語を教えるのは注意が必要。幼児本人が母国語(日本語)を完全に覚え、言葉の概念をしっかり理解してからでないと、頭の中が混乱して、えらいことになる」といった内容でした。この“注意”がもし正しいとすると、保護者はどのように対処すべきだろうか――。

 

2歳半ばの孫は常日頃、私たち祖父母とはごく普通に日本語で会話しているのですが、テレビ画面の中で話される英語には英語で返答しています。それを見る限りでは、混乱している風には見えないのですが…。

 

家の近くで、中国から日本に来ている中国人の家族をよく見かけます。夫婦同士は中国語で話し、日本人とは日本語で話しています。そこで育つ彼らの子どもも家の中では中国語、外では日本語を(何の問題もなく?)話しているのでしょう。そう考えると、孫に対する心配は“杞憂”ということになります。だとすると、(新聞かテレビの中の)指摘をどう考えればよいのでしょう。

 

 孫と話していて感心するのは、私たちの思いを酌みながら孫が話していることです。私自身、2歳半ばの記憶はありませんが、はたして孫のように相手の気持ちまで斟酌して話していただろうか。いろいろ考えさせられる日々です。

 

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 話は変わりますが、それにしても2歳~5歳児の彼・彼女らが、ハンドベルやピアニカなどの楽器を操っているのを見て、びっくりしました。その年頃の自分を振り返ると、せいぜい小太鼓やカスタネット、トライアングルくらいでした。つまり、打楽器のみだったのが、いまの子は音階を伴う楽器をいとも簡単に操作しているのです。

 

 また、フラダンスなども踊っていました。いちばん感心したのは「ジングルベル」の歌にDA PUMPの「U..A」のような振りを取り入れ、片脚を上げたまま歩を進めたり、最後には両腕を交互に屈伸させたりするのにも驚きました。とても幼児とは思えない。ここまで“上達”するには先生もたいへんだったでしょう。

 

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       「写真撮影」ばかりで、悔いは残らない?

 

 さて、ただひとつ残念だったのは、若い親御さんたちの写真撮影のことです。秋の運動会の時もそうだったのですが、最近の親はみな、スマホを高々と上げて我が子を撮影しているのです。これが最近の“はやり”だから、むべなるかなとは思いますが。しかし、私からすれば「ああ、もったいない」という気がするのです。

 

 つまり、演技をしている我が子に対して、親が「いちばん見なければいけない」場面で子どもからすれば「いちばん見てほしい」場面で、互いにその顔を見ていないのです。親は「スマホに映る我が子」を、子は「スマホにさえぎられた親」を間接的に見ているだけなのです。

 

それは将来に残しておく「写真」のためなのでしょうが、やはり「ほんものの我が子」を見ておかないと、悔いが残るはず。でないと、本当の感動をおぼえることが出来ません。

 

それに、最初から最後までスマホに夢中になっていると、それが気になって、我が子が歌い終わったあと拍手も出来ない。もったいない。どうしても写真を残したいのなら、最初にさっと1~2枚撮り、あとは「歌い、踊る我が子をしっかり見る」ことです。会場には記録担当の写真係もいたはず。

 

 このようすをずっと後ろの方で見ていた私―― 

わが孫や、よその子が踊る一挙手一投足をずっと目で追っていました。とくに「ジングルベル」の曲に合わせて踊っていた子どもたちの姿に、「すごい、この歳でここまで出来るんだ」と感動の連続…。そして大きな拍手を送ったあと、思わず涙をこぼしてしまいました。

 

 我が子をスマホ越しで撮影していた親たち―― 

はたして、「涙を流した親」がどれだけいただろうか。壇上の子どもたちが将来、思い出す光景はきっとこんな感じではないでしょうか。「舞台の前にスマホがずらっと並んでいた。親の顔は見えなかった。拍手もしていない

 

記録も大事。でも、我が子をしっかり見ようよ、親御さんたち!

 

 

                             (記 2019.12.28 令和元)