~ あのころの京都、「四条通り」 ~
先日の朝日新聞朝刊「声」欄に、京都市民の嘆きが吐露されていました。京都生まれの私も人生のほとんどを市民として過ごしてきましたから(現在は東京在住)、とても他人事とは思えません。同様の嘆きは、このブログ(*随想*40)でも取り上げています。
(2019年5月10日、東京本社版から引用します)
………………………………………………………………………………
(声)京都の観光客、もう勘弁して
介護支援専門員 捧 元一(京都府 54)
私の住む京都は観光客でいっぱいである。
ここ数年インバウンドの増加が著しく、有名観光地は平日も観光客が多く、バス停は長蛇の列、おまけに大きなスーツケースを持っており円滑に乗りづらい。加えて他府県ナンバーのおびただしいマイカーや大型観光バスで、ただでさえ狭い京都中心部の道路は渋滞だらけ。市民の日常に強いストレスがかかっている。
元々、京都の良さは中心部での職住近接であり、代々町衆が年中行事を担ってきたことである。それを、いつの間にか次々と外部資本のホテルが建設され、景観もだいぶ怪しくなっている。ホテルばかりの京都っておかしくないか?
ぜいたくかもしれないが、もう観光客は勘弁してほしいのが本音である。せめて市民の日常生活に配慮しつつ観光していただきたいのが切なる願いである。
………………………………………………………………………………
投稿者の捧さんは、「もう観光客は勘弁してほしい」と言っておられます。観光客の目的地は嵐山や嵯峨野といった風光明媚なところもあるでしょうが、必ず訪れるのが市内中心部の神社仏閣です。おかげで途轍もない拝観料(入場料!)が入る観光寺院や土産物店はほくほくでしょうが、日常生活をいとなむ市民にとっては“迷惑千万”ということなのです。
観光政策はいまや「日本の目玉」として政府も躍起になっていますが、さてさて困ったものです。
+
では、街の風景がどのように変わって来たか、写真を見ていただきましょう。
明治中期に日本を訪れたドイツの経済・政策・社会学者、カール・ラートゲン(1856~1921)は『日本旅行記』を著しました。そして、「日本残像」という写真集を遺したのです。そこには、今を生きる市民が見たことのない数多くの<明治の京都>が写っています。
最初に掲げた2枚の写真は、
(上)が「明治10年代の八坂神社西楼門から見た四条通り」です。
家並みは二階建てで道路はまだ土のままです。人はまばらで、ところどころに人力車が止まっています。空気は澄み、静寂そのもの。手前奥の方からは知恩院の鐘の音も聞こえて来そうな風景です。
(下)は同地点から見た「平成初期の四条通り」です。
地面はアスファルト、通行する人たちは通りの両側にある狭いアーケードの下に追いやられています。そして、通りのほとんどを“占有している”のが自動車で、悠然と走っています。
また、注目すべきは目の前の、四条通り(注=上下)と東大路通り(注=左右)の交差点です。平成初期はまだ空間がありました。ところが、平成の中頃から令和の現在に至っては観光客を乗せるバスやタクシー、自家用車が数珠つなぎとなって身動きのとれないくらいに膨れ上がっているのです。(写真左下=令和元年・正午すぎに撮影)
(上)(下)ふたつを見比べて――その間、つまり「大正」「昭和」の時代には、通りの中央にいまは懐かしい市電(チンチン電車=写真右上)が走っていました。しかし、モータリゼーションというクルマ社会の出現で、あっというまにそれらの“大群”に押しつぶされ消えてしまったのです。ほんとに惜しいことをしました。しかし、いつまでも町衆は黙っていません。市民の間からは「乗りやすく、安全で大気を汚さない市電復活を!」という声も聞かれます。ぜひ、そうしてほしいものです。いや、そうしなければなりません。
(記 2019.5.15 令和元)