*本・文学・ことば(13) フランクルの『夜と霧』から | のむらりんどうのブログ       ~君知るや ふたつの意識~

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2002年9月22日の早朝。目覚めて布団の上に起きあがった瞬間、私は「光の玉(球)」に包まれたのです。以来、「自我」(肉体と時間に限定されたこの世に存在する私)と、「真我」(肉体を超えて永遠に宇宙に実在する私)の、ふたつの意識を持って生きています。

  

 

 

     地上には二つの人間の種族がある。

       善意ある人間と、そうでない人間と。


                ヴィクトール・E・フランクル 

 

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       『夜と霧』 ―ドイツ強制収容所の体験記録―

 

                 (霜山徳爾訳 みすず書房)

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  ドストエフスキーが『死の家の記録』で人間を定義して、「すべてに

  慣れ得るもの」とした命題がどんなに正しいか意識せざるを得なかっ

  た。 

 

  仲間が寝ていてうなされている。あわてて起こそうと思ったがやめた。

  どんな中身であろうとも、この収容所の現実よりはましだろうと思っ

  たから――  

 

  ユーモアもまた、自己維持のための闘いにおける心の武器である。

 

  市電に乗って家に向かう。入り口の扉を開ける。電話が鳴る。受話器

  を持ち上げる。家の電灯のスイッチを入れる――囚人が思い出の中

  で撫で回し、慈しむものは、こんな一見、笑うべきささやかなこと

  であった。悩ましい思い出に涙する者もいた。 

 

  囚人については「内面の拠り所を持たなくなった人間のみが崩壊せし

  められた…」 

 

  必要なのは、人生から何をわれわれはまだ期待できるか、ではなく、

  むしろ人生が何をわれわれから期待しているか、が問題。 

 

  人生とは結局、人生の意味の問題に正しく答えること、人生が各人に

  課する使命を果たすこと、日々の勤めを行うことに対する責任を果

  たすこと。 

 

  人間は苦悩に対して、この苦悩の運命とともに世界でただ一人、一回

  だけ立っているという意識にまで達せねばならない。 

 

  何人も彼の代わりに苦悩を苦しみ抜くことは出来ないのである。 

 

  「人間の善意を人はあらゆる人間において発見し得るのである」。し

  たがって人間の善意は罪の重いグループにも見いだされるのである。 

 

一方が天使で、一方が悪魔であるとは説明出来ない。

「監視兵が囚人のため、ポケットマネーで薬を買い与えた」

「囚人代表は監視兵を合わせたより厳しかった」 

 

  地上には二つの人間の種族がある。善意ある人間と、そうでない人間

  と。

 

いかなるグループも「純血」でなく、どちらの人間も入っているのである。

 

 

                         (記 ?)