「バイバイ」――という言葉を3歳の女の子が発するとき、みなさんはどんな光景を思い浮かべるでしょうか。
<サラリーマン家庭の朝>
父親の出勤時の玄関で、母親の胸に抱かれた娘が手を振りながら、「パパ、行ってらっしゃい。早く帰ってきてね。バイバイ」
<保育園の朝>
父親か母親に送ってきてもらった娘が手を振りながら、「保母さんの言うことをよく聞いて待っているから、早く迎えにきてね。バイバイ」
<じいちゃん・ばあちゃんの家>
遊びに来ていた娘が、迎えにきたママと家に帰ることになった。じいじ・ばあばに向かって手を振りながら「また来るからね。バイバイ」
いろんな光景が浮かんできます。そしてそこには、親子の、肉親の、その子をはぐくむ周囲の人たちの温かい心と息吹が流れています。
ところが、とんでもないことが起きていたのです。
それを朝日新聞が取り上げました。10月16日から始まった『小さないのち―奪われる未来』というキャンペーンで、「児童虐待」の現実がクローズアップされています。二回目の17日に次のような記事が載りました。
(一部を引用します)
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笑顔の娘 川に落とした
「この子をこのまま置いておくわけにはいかない」
不機嫌になっていく交際相手の男性の様子を見て、24歳(当時)の女性はそんな気持ちになっていった。
3歳の一人娘は、別れた元夫との子ども。同居を始めた男性は、徐々に娘の存在をうるさがるようになっていた。この朝も不機嫌になってトイレに閉じこもると、ドアを殴って壊した。
夕方、保育所に娘を迎えに行った後、まっすぐ帰宅せず、近所の実家に寄った。母に預かってもらいたかったが、娘が風邪気味でできなかった。
午後8時前、自宅アパートに戻った。食器を片付けようと台所に行くと、娘が泣き始めた。眉間(みけん)にしわを寄せ、大きなため息をつく男性を見て、娘とアパートを出た。子どもを預けられそうな施設をネットで探したが、見つからない。「この子がいなくなるしかない」。そう思い詰めた。
午後10時過ぎ。近くの川に架かる橋のそばに車をとめ、娘を両腕に抱いて橋の欄干に立たせた。
車が通るたび、娘を欄干から降ろす。3度目、娘を抱く手を伸ばし、宙に浮く状態にしてみた。川面からの高さは4メートル以上。娘はにこっと笑い、突然こう言ったという。
「バイバイ」
手を離した。ドボンという音が聞こえたが、その場を離れたくて車まで走った。自宅の前で車を止めると車内で少し泣き、部屋に戻った。
翌日、橋の約1キロ下流で女の子の遺体が見つかった。3歳の誕生日を迎えたばかりだった。
女性は21歳で娘を出産したが、夫の家庭内暴力(DV)もあり、離婚。その後、相談相手だったアルバイト先の男性と同居を始めた。
法廷で女性は「橋から落としてしまうことしか考えられなかった。最低なママでごめんなさい」と涙を流しながら語った。
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これを読んで、私は平常心を失いそうになりました。
事件に至るまでのこの女性の身の上を理解するとしても、あまりにも短絡的な行動に怒りをおぼえたのです。どうして、愛娘を実家の家族と一緒になって養育しようとしなかったのか。育児疲れはどの親にも降りかかる問題。むしろ女性のストレスは、娘に襲いかかるかもしれない同居男性からの心理的な圧迫感に打ち勝つことができなかったのでしょう。
石川達三の『その最後の世界』(新潮社)という小説を思い出しました。人間は「個人の自由」を求めてこの世をさまよいますが、生をまっとうする上で、「あらゆるものからの自由」はあり得ない、という主張をしているのです。
人は、自然権という生まれながらに付与された自由を持っています。個人の尊厳が侵されるゆえなき暴力や、虐待を受けたり、自由を奪われる奴隷的な扱いは許されません。しかし一方で、人間は集団で生活することを余儀なくされる生き物です。ですから、そこには「公共」という概念におけるルールが必要で、そのルールに従ってわれわれは生活せざるを得ない、というのです。
石川達三はこの小説を1974年(昭和49)に書いたのですが、すでにそのころから「男女交際のルール」が崩れ始めていたのです。男女は互いの人間性を知る前に、すぐに肉体関係に突き進んでしまいます。そこで何が起きるか。石川達三は現在のような世の中になることを既に見抜いていました。
世に、シングルマザーという女性があふれるだろうと“予言”していたのです。それは女性が「自由」を得るというものではなく、「放縦」であり「無知」だと言います。誤解されては困りますが、シングルマザーが悪いのではありません。そのような状況に陥ったとき、苦悩を抱え行く末を全うできなくなるのは結局、女性本人なのだと言うのです。われわれ人間は、それを回避する知恵を持たなければなりません。
『その最後の世界』には、こういうくだりがあります。
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……森に住む野性の狐は自分よりも強い獣に襲われると、産んだ仔を咥えて森の中を逃げまわる。敵の襲撃が身辺に迫り、いよいよ逃げ切れなくなったとき、母狐はその仔を喰ってしまう。…それが狐の母性本能である。本能には打算はない。本能は本能であって、智能ではない。仔狐の命を守ろうとする本能は、いよいよせっぱ詰まったとき、逆転してみずから仔狐の命を奪うことになる。仔を奪われまいとする母狐の本能は、仔を食べてしまうことによって完成され、その目的を達する。本能とは本来、それほど愚かなものであるのだ。……
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同居する男から娘を守ろうとした母親。心情は理解しても、その行為は狐と同等だったのです。母狐は本能で子狐を食ったが、この母親には理性がありながら……
「バイバイ」と言った娘。この子は、母親に川に落とされることを察知していました。人によって違いはありますが、3歳の子には生まれて来たこの世と、生まれる前の世界との二つの意識を持っています。この子は母親が付き合っている男から疎んじられ毛嫌いされていることもしっかりと意識しており、「自分の存在」が母親を苦しめていることも分かっていたのです。
「自分がこの世を去れば母親は楽になれる」。このことを意識の底においた3歳の娘は、欄干の上に置かれたとき、自分の運命を悟ったのです。「ママの望みはこういうことなのだ。それなら私は先にあの世へ逝きます。ママ、幸せになってね」
「(ママ)バイバイ」
泣かず、ジタバタせず、何の恨みごとも言わずに、自分が死んだ後も母親が楽な気持ちでいられるようにと、にっこりと笑って言葉を発したのです。<この世では一緒にいられなかったけど、いつかまた会える日が来るかも…>
母に見せなかったこの子の涙は、今、パソコンを打つ私の目から流れつづけています――
(記 2016.10.21 平成28)