スポーツ紙にあって一流紙にないもの――躍る活字、シモネタ、それに誤字脱字・当て字といったところでしょうか。ところで、出久根達郎のエッセーを読んでいて、面白い内容に出くわしました。
どういうことかというと、夏目漱石の文章には当て字が相当あるというのです。たとえば『坊ちゃん』には、疳違ひ、辛防、食ひ心棒、瓦落多(がらくた)、黒人(くろうと)、婆化す、蚊弱い…等々、枚挙にいとまがありません。
このことは漱石の作品を読んでいれば、当たり前に気づくことなのですが、出久根が感心したのは、それら明らかな誤字や当て字を訂正せずに、そのまま原文通りに印刷した編者の器量です。いや、文豪漱石ともなれば、一字一句たりとも手を入れずに原文尊重という姿勢だったのでしょうが、いずれにせよ、現在多少とも文章を扱う私からすればまさに驚きです。
そして、出久根は「漱石の生き生きとした文章表現は、当て字にささえられている」と言い切ります。
長く校正や編集のしごとに従事し、誤字・当て字は許されないという教育を受けてきた私としては、ルール通りに統一しなければ、ものごとは混乱すると考えます。しかし、それが絶対ではない、ということを肝に銘じておかないと、画一的なものの考え方、それ以外は認めないという原則主義者に陥ってしまうおそれがあることを教えられたのです。
漱石はいったい、どういう理由で、当て字を頻繁に使ったのでしょうか。あたりまえの規則に沿った文章からはみ出すことによって、それまでにない、新たな世界を小説のなかに創造しようとしたのでしょうか。それとも、字引などに拠らない、たんなるものぐさだったのかもしれません。
「気嫌」とあれば機械的に「機嫌」と直してきた己の仕事を今、振り返っているところです。
(記 ?)
