「夜のヒットスタジオ」(フジ・1979年4月16日放送)
ニュー・ホリデー・ガールズが出演していたTBSの音楽番組「サウンド・イン・“S”」のプロデューサー渡辺正文氏(故人・以下渡辺P)
渡辺Pは世界各国の豪華アーティストを集めたビッグイベント「東京音楽祭」を企画プロデュースした人物で、あの「ザ・ベストテン」の名付け親でもあるそうな。
ちなみに渡辺Pの波乱のテレビマン人生を、なかにし礼が小説「世界は俺が回してる」で描いています。
さてここからはワタクシが夜ヒット本や雑誌から見聞きした、渡辺Pと「夜ヒット」プロデューサー疋田拓氏(以下疋田P)とのエピソード。
なおディテールが間違ってる可能性もありますので、ご注意下さい。
「夜ヒット」が2時間のデラックスVer.にリニューアルする際、疋田Pが番組の目玉にしようと考えたのは、海外アーティストの衛星生中継。
しかしスタッフに元々強いパイプも無く、アーティスト側も様子見という感じでなかなか出演が決まらないのでありました。
そんな折…渡辺Pが世界の超大物・フランク・シナトラを日本に呼ぶという話を聞き付けた疋田P。
「よし、シナトラを借りよう」と思い立ち、早速TBSへ向かい渡辺Pに直談判。
しかし渡辺Pが出した条件、それは「1000万持って来い」
意気消沈して局に帰る疋田P。
そのことを全て局のトップ、フジサンケイ鹿内議長(故人)に話したら、一言。
「バカヤローッ!お前の番組だろ」
再び動き始めた疋田P。
局の経理に掛け合って金を工面し渡辺Pに1000万を持参したところ、無事交渉成立。
シナトラ出演確定で喜んでいた疋田P。
ところがその直後、オファーをかけていた海外アーティストから、突然出演OKの返事が。
そのアーティストとは、ティナ・ターナー。
つまり、フランク・シナトラとティナ・ターナーが同時出演になってしまったのでありました。
二人だけで制作費5000万円。
どうしようか…と迷う疋田P。
そして考えた挙句、えーいやっちゃえってことで、シナトラはスタジオ、ティナは衛星生中継での出演で、二人がトークするコーナーも作り、夜ヒットDXリニューアル後3回目に同時出演を敢行。
結局1回の制作費は何と総額7000万円にふくれあがったのでした。
ところが…放送直後から局のデスクに電話が殺到。
フランク・シナトラとティナ・ターナーが生番組に同時出演したという話が全世界に広がって、「夜ヒット」って一体どういう番組なんだという注目を集めたのであります。
その後海外アーティストのキャスティングが随分楽になったのだそうな。
番組に出演すればレコードの売上が伸びるということで、時にはノーギャラ出演も。
レコード会社も次第に色めき立ち、そして夜ヒットDXには毎週海外アーティストが出演するようになったのでありました…
要するに…当時は景気が良かったって話ですが(笑)
疋田Pも運が良かったんですね。
やはりショービジネス界は運とカネ、結局はこれに尽きますね。
でもまぁワタクシ的には夜ヒットは1時間の頃が良かったですけどね。
海外アーティストコーナーは興味無かったです。
洋楽ファンも専門番組の方を見るだろうし。
それにしてもベストテンと違って、夜ヒットの場合は時代によって番組の印象が違うのが面白いですね。
例えば私は加賀まりこ時代が良かった…は無いか(笑)
「夜ヒット」続きはまた。
では、このへんで。