未知なる心へ -22ページ目

未知なる心へ

統一教会入信から脱会までの日々と、脱会後の魂の彷徨。

少し遅くなったけれども、統一教会に出された解散命令についての、わたしの思いを書いてみたい。

 

 

解散命令については、もちろん賛成。即時、強制執行しても良いと思っているほどだ。今後、数年間かけて裁判で争うなんてことは、非常にまどろっこしいし、じれったい。

 

 

だが、自分も元信者であるから、信者が持つであろう感情も分かる。多くの信者はこれを「宗教迫害」ととらえるだろうし、教団としても、信者をあおって団結を強める方策を練るだろう。

 

 

これだけ情報網が発達した現代においても信者であり続けるような人は、言い方は悪いが洗脳が完了し、信者であることを自ら選択している人だから、ちょっとやそっとのことで信仰は揺るがないと思う。

 

 

統一に限らず、ある特定の宗教の信者になるということは、思考に「特定の色」がついたフィルターをかけることである。統一の信者は、統一の教義に染まったフィルターを通して物事を考える。時にはそれが、現世の苦しみを和らげる妙薬になることもあるだろう。だからこそ、かたくなに信者であり続ける人がいるのだ。

 

 

特定の教義に身を委ねるってことは、ある意味、楽なんだよね。自分で考える必要がないから。教祖の教え、経典に書いてあることに従って、日々を過ごせば良いからね。

 

 

わたしも統一を離れてから、心の拠り所を探して、様々な宗教や哲学を遍歴したけれども、「これが絶対の真理」と確信できるものなんてなかったね。部分的な真理はあっても、やっぱり組織化すると、なんらかの人間的なしがらみって、絶対出てくるわけ。

 

 

だから今は、どの団体とも距離を置いているけれども、自分で生きる道を探していくってのも、なかなか苦しいわけ。だから、矛盾だらけの統一、韓鶴子の教えにいまだにしがみつく気持ちも分からんでもない。

 

 

何十年も人生かけてきて、何百何千万円と貢いできて、今さら「間違ってました」なんて思いたくないよな。それこそ「自分の人生一体何だったんだ」ってなっちゃうしな。

 

 

でもなあ、結局大差ないんだよ。どうせ死んだ後のことなんて誰にも分からないんだから。だったら、少しでも楽しい、穏やかな気持ちで現世を生きれた方がいいよなあ。

 

 

自分も統一では6年間近く信仰してたけど、苦しいことばっかりだったもんなあ。基本苦しいから、時々あったささやかな楽しみが、とても輝くわけ。だから、それが青春の貴重な思い出として、深く心に残ってるんだけど。

 

 

まあ、それはそれとして、統一の一番気に入らないところは、とにかく何でも金、金、金ってところ。現役の頃からおかしいと思ってたからね。宗教団体なんだから、一番大切なのは心だろって、信者の頃から思ってた。

 

 

でも、地上天国建設には金がかかるの一点張りで。それが天の願いってな。まあ、自分はそんな感じだったから、きっと、祝福受けて家庭持ったとしても、長くは続かなかっただろうな。借金してまでの献金なんて、絶対やらねえって。

 

 

だから、残念ながら統一教会はもう終わり。裁判を何年かやって解散命令取り消しなんてなっても、もはや勢力の拡大は望めないね。もし、自分が教会に残ってて、日本の教会長にまで上り詰めてたら、もっとまともな教団になったかもしれないけどな(笑)

 

 

そう考えたら、平成7年6月にわたし(ミクラス)が脱会した瞬間、日本統一教会の崩壊は決まってしまったということ。そう考えると、申し訳ない気持ちもあるね。

 

 

なんてのは、もちろん冗談だけど(笑)