未知なる心へ

未知なる心へ

統一教会入信から脱会までの日々と、脱会後の魂の彷徨。


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昨日、いつも通っている曹洞宗寺院の坐禅会に参加してきた。

 

私は瞑想と坐禅の両方を実践しているが、それらの違いを簡単に言うと、次のような感じである。

 

瞑想・・・呼吸やお腹の膨らみ、心の動きなど、集中(気づき)の対象がある。

 

坐禅・・・目は半眼にしてぼんやりと見つめたまま、何も考えずにただ坐る。

 

特に違うところは、ヴィパッサナー瞑想だと目を閉じることが多いのだが、坐禅では基本、眼は瞑らないということである。

 

 

 

 

つまり、視線を1mくらい先の床に向けて、ぼんやりと眺める感じになるのだが、いい感じで集中できる時もあれば、雑念にとらわれて物思いにふけってしまう時もある。だが、今日は久々に、いい感じで坐れた。

 

仏教的に見て良いのか悪いのかは分からないが、生命力が喚起される感じである。

 

じーっと坐って動けないというのは、身体的に見ればはなはだ不自由な状態だ。

 

しかし、この不自由さの中で、ある種のエネルギーがどんどん活性化していくのである。(といっても、これはあくまで私個人の解釈である)

 

 

 

私は数年前に、バイクの事故で右手を骨折したことがあった。前腕部にギプスをはめることになり、その不便さは想像を絶した。

 

利き手だったから字も書けないし髭も剃れない。両手を自由に使えるということがどれだけありがたかったのかを、身をもって知った。

 

その時に思ったのは、「両手さえ使えれば何でもできる!」ということだった。

 

普段は両手を使えることが当たり前だから、そんなことは感じないものだ。だが、それを失った時に初めて、今あるものの本当の価値とありがたさがわかるものなのである。

 

今日、坐禅中に感じた思いは、その時に近いものだった。

 

じっと坐って、ただ自分の心身を見つめていく中で、だんだんと「おれには何だってできる!」という思いが湧きあがってくるのだ。

 

 

 

 

自分の意識を水面下で抑えつけているものから、解放されたような感じである。これが「心を解き放つ」ということだろうか。

 

もちろん、悩みや不安が消えるわけではないし、この状態がずっと続くわけでもない。

 

それでも、こうしたことを繰り返していく中で、少しづつ心が本来の姿を取り戻していくのだと思う。

 

 

 


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