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未知なる心へ

統一教会入信から脱会までの日々と、脱会後の魂の彷徨。

先週の土曜日、勤務明けで自宅に帰り、食事を終えたのだが、なんだか右耳の奥で耳鳴りがする。

 

 

一時的な「キーン」という耳鳴りは時々あるものだが、今回の耳鳴りは、ちょっと違う感じがした。耳鳴りだけでなく、頭部の右側に重さを感じる。もしかしたら、突発性難聴ではないかと思ったが、手のひらをこする音は聞こえる。

 

 

わたしは長年、補聴器の仕事をしてきたので、突発性難聴のことはある程度知っている。とにかく、突発性難聴の疑いがあったらスピードが勝負だ。症状を自覚したら、医者に診せるのは早ければ早いほどいい。なので、念のため耳鼻科に行こうかと思ったが、残念ながら、わたしの住む日立市には評判の良い耳鼻科がない。しかも土曜日。

 

 

とりあえず月曜まで様子を見ることに決めて、ジムにトレーニングに行った。すると、いつしか耳のことなど気にならなくなり、ジムから帰ってきたら、耳鳴りはすっかり治まっていた。頭の重さもない。わたしは安堵した。

 

 

しかしながら思ったのは、遅かれ早かれ、身体の不調というものは、必ず訪れるということである。たまたま現在、健康でいられるだけであって、生命に寿命がある限り「死」というものを避けることはできない。

 

 

しかし、わたしが恐れているのは「死」そのものではなく、そこに至る過程だ。数年前、父が寝たきりになって苦悶しているさまを見ているからである。そういった意味では、父は大事な教訓をわたしに教えてくれた。

 

 

人間は、そう簡単には死ねない。「ピンピン、コロリ」と簡単には逝けないのだということを。

 

 

まあ、中には交通事故で即死とか、朝起きたら亡くなってたとか、あっさり死んでしまう人もいるけれども、多くの人は、病の苦しみの中で徐々に衰弱し、亡くなっていくのではないか。

 

 

まあ、それはそれで仕方がないのだが、わたしが恐れるのは、まだ働かなければいけない年齢にもかかわらず、働けなくなり、生活が困窮するようなことだ。いま55歳だが、最低でも年金が支給されるようになるまでは、働ける身体を維持していかないといけない。だから、週一回の筋トレも、なんとか続けられているのだ。

 

 

しかし、今のわたしの生活、決して高給取りではないが、そんなに悪くはないと思っている。仕事のストレスはないし、夫婦仲もまあまあで、息子二人は元気で自活している。貯金こそ少ないものの、自分の買いたいものは何でも買っているし、生活に困るようなことはない。

 

 

それでも、心が満たされるということはない。心のどこかに、言いようのない悲しさが潜んでいる。それは何か?

 

 

ひとつには、「親友がいない」ということが、いえるだろう。わたしは高二以降、友人の作り方を忘れてしまったようで、なんでも腹を割って話せるような友人がいない。日常的に会話を交わす相手は妻だけで、そのことが、自分の人生を狭めてしまっているように感じている。

 

 

まあ、妻だけでも話し相手がいることには、感謝しなければならないのだろうが。基本、人間というものは、現状に満足できない生き物なのかもしれない。